日本キリスト教団 赤羽教会

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[礼拝説教]主が命じられたとおり

大友英樹牧師
2017年9月12日
出エジプト記40:1~16

主の過越しがなされて、出エジプトの救いの御業がなされるとき、主なる神さまは《この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい》と言われました。その月の14日に小羊を屠り、その血を家の門の柱と鴨居に塗りました。その夜、エジプトのすべての初子が撃たれますが、その血が塗られているイスラエルの民の家は過ぎ越され、そこから出エジプトの救いがはじまりました。それから3か月後、シナイ山に到着します。モーセはシナイ山に何回か登ります。40日40夜シナイ山にいたことが2回ありました。そのようにシナイ山の麓にしばらく滞在していました。そのシナイ山の麓で、幕屋を造ることが命じられることになります。

これから40年の荒野の旅がはじまることになります。その荒野の旅にあって、神さまを礼拝する幕屋を造ります。それは移動式の幕屋です。荒野の旅をするときにはたたんで持ち運び、留まるときには再び組み立てるわけです。この幕屋をたたみ、持ち運び、組み立てる役割を担ったのは、イスラエル12部族の中でもレビ人と呼ばれる人々でした。レビ人は幕屋に仕える働きを担うことになります。そしてイスラエルの民は、この幕屋のまわりに部族ごとに宿営することになります。

このように幕屋を建てることが命じられます。1節《主はモーセに仰せになった。第1の月のついたちに幕屋、つまり臨在の幕屋を建てなさい》。この第1の月というのは、17節によると《第2年の第1の月、その月のついたちに、幕屋が建てられた》とありますから、出エジプトをしてから1年、シナイ山についてから9カ月ほどが経過していました。その間、モーセは何度かシナイ山に登っていきましたから、幕屋建築のための準備には、実際には6ヶ月ほどの期間であったかと思われます。35章には幕屋建築のために心動かされ進んで心からささげようとした者たちの献げ物のリストがあります。十二分な献げ物がささげられました。そして36章からは実際の幕屋建築の様子が記されています。幕屋を覆う幕、幕屋の壁板と横木、幕屋の中で最も聖なる至聖所の前の垂れ幕、幕屋の入口の幕、至聖所に置かれる十戒の板がおさめられている掟の箱、その上に乗せる贖いの座、幕屋の中におく机と燭台と香を焚く祭壇、幕屋の前で犠牲をささげる祭壇、幕屋と祭壇の間に置かれる手足を清める洗盤、さらには祭司の衣装が造られました。

こうして幕屋が建てられることになりますが、この幕屋建築の重要なポイントは何でしょうか。それが40章に繰り返される《主が命じられたとおり》ということです。今日読みましたのは、40章1~16節まででした。ここには神さまがモーセに《第1の月のついたちに幕屋を建てなさい》と言われて、こういうふうに幕屋を建てなさいと命じているところです。そして16節には《モーセは主が命じられたとおりにすべてを行った》とありまして、そして17節からその具体的に幕屋建築が行われたことが記されています。その一つ一つに《主がモーセに命じられたとおりであった》と繰り返されています。ここだけでも8回、《主が命じられたとおり》とありますが、さらには35章からの幕屋建築のところをみますと、さらに15回ほど繰り返されています。主の幕屋は「主が命じられたとおり」建てられなければならない。幕屋を建てようと言って、自分たちが考えるように、自由に建てることはできません。主の幕屋はこうでなければならないと主が命じられます。具体的にこうした材料で、こうした寸法でというのがありますが、最も重要なのは神の臨在される礼拝の幕屋、罪が贖われ赦される幕屋、交わりの幕屋を建てなければなりません。そのために至聖所があります。掟の箱のうえに贖いの座があります。幕屋の内に神の臨在を照らす燭台があります。犠牲をささげる祭壇があります。そのような神の命じられた幕屋を建てなければならない。

主の幕屋は「主がモーセに命じられたとおりに」建てられました。それでは新約における主の幕屋は「主が命じられたとおりに」建てられているか。新約における主の幕屋は教会です。教会も主の命じられるとおり建てられなければなりません。それは幕屋の寸法通りというのでありません。至聖所や贖いの座や犠牲をささげる祭壇がなければならないということでもありません。イエスさまの十字架の死によって、至聖所の垂れ幕が上から下まで真二つに裂けました。イエスさまご自身がその十字架の血をもって贖いの座に自らをささげてくださいました。至聖所も、贖いの座も、犠牲の祭壇も、もうイエスさまの十字架によって成就されました。イエスさまご自身が至聖所であり、贖いの座であり、犠牲の祭壇となってくださったからです。そのゆおうにして主の幕屋である教会は、主が命じられるように教会が建てられなければなりません。それはイエスさまの十字架を明らかにするものでなければなりません。その中心はイエスさまの十字架をあかしするところの、主の聖餐のテーブルです。主の聖餐のテーブルを中心として、ここに主イエス・キリストの救いがある。この主の聖餐のテーブルにあなたも招かれている。共にこの聖餐にあずかろうではないか。主なる神さまが命じられるのは、教会は主の聖餐を守る神の民でありなさいということです。神の国に備えて主の聖餐を守る神の民でありなさい。そのために洗礼を授け、神の民に人々を招きなさいと伝道することが命じられます。

教会は「主が命じられたとおり」建てられなければなりません。ルカ福音書5章にイエスさまが弟子を招かれたとき、《沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい》と命じられます。ペトロは《夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう》と答えて、《そのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった》とあります。ヨハネ21章にもイエスさまが《舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。そこで網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった》ともあります。漁師であるペトロたちが、その経験を生かして一晩中漁をしますが、何もとれません。自分の経験ではなく、イエスさまの御言葉に従ったときに、多くの魚がとれたとは何と象徴的なことでありましょうか。漁師としての経験や考え、常識があるでしょう。そういうことからしますと、イエスさまの御言葉は漁師の経験がなく、漁師の考えや常識からすれば聞き流してしまってよいようなものです。しかしその御言葉に従ったとき、本当の漁ができたのです。しかもそれはおびただしい魚がとれて、網を引き上げることができないほどの本物の漁ができました。

主なる神の御言葉、主にイエスの御言葉に従うこと、主が命じられたとおりに教会が建てられとき、本当の教会、本物の教会となるのです。こうした方がいいとか、ああした方がいいとか、この世の常識や思想や社会の経験やマネージメントなど一切必要ないというものではありません。しかし「主が命じられたとおり」主の御言葉に従うよりも、この世の常識や思想や経験が重んじられるとき、教会は本当の教会にはなりません。本物の教会ではありません。「主が命じられたように」その御言葉に従うが、主の教会です。

先日、ある教会からニュースレターが送られてきました。その中に洗礼は差別である。教会は洗礼によって差別をしてしまっている。洗礼を受けたものしか聖餐を受けられないのは、分け隔てを撤廃したイエスさまのお考えとは違うと言っています。洗礼を受けていなくても神を信じる者はクリスチャンであり、聖餐を感謝して受けることができるとも言っています。ここにあるのは、20世紀の神の宣教という神学思想です。神は教会を通して宣教するというのではなくて、教会だけに救いがあるというではなくて、神は直接世界に働いておられるので、教会がなくても救いの御業が進んで行くというのです。そうしたことから、社会改革や抑圧されている人々を解放することこそが宣教であるということになってきます。

しかしこうした神学思想は、「主が命じられるとおり」ではありません。聖書には、ペトロの信仰告白に答えて、イエスさまはわたしに教会を建てようと仰せになります。イエスさまは最後の晩餐で聖餐を制定されました。これはわたしの体である。これはわたしの血である。新しい契約である。わたしの記念として行いなさいと命じました。そして復活されたイエスさまは父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい。信じてバプテスマを受ける者は救われるとの命令であり約束です。その主の御言葉に従った弟子たちはどうだったでしょうか。イエスさまが天にお帰りになり、約束の聖霊が注がれたとき、ペトロは立ちあがって最初の説教をしました。その説教に心打たれた者は、「わたしたちはどうしたらよいのですか」と問いに、はっきりと命じました。《悔改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を授け、罪を赦していただきなさい。そうすれば賜物としての聖霊を受けます》。この御言葉に従って3000人が洗礼を受け、そして使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。パンを裂くとは聖餐です。洗礼を受けた者たちが礼拝に集まってパンを裂くのです。

イエスさまご自身が洗礼を命じられます。イエスさまご自身が教会を建てると約束しておられます。イエスさまの名によって洗礼を受ける者が教会を建てていきます。イエスさまの十字架の贖いを感謝し、罪赦された確信を与えられ、神の国の到来に備えて、聖餐が祝われます。すべてイエスさまの命じられた御言葉です。イエスさまが分け隔ての差別をもたらしたのでしょうか。イエスさまが教会がなくてもよいと言われたのでしょうか。教会が授ける洗礼には救いがないのでしょうか。決してそうではありません。「主が命じられるとおり」、聖書の御言葉のとおり、教会は建てられていきます。

 

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