日本キリスト教団 赤羽教会

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[礼拝説教]主の雲があるところ

大友英樹牧師
2017年9月20日
出エジプト記40:34-38

《雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた》(34節)。出エジプト記の終わりは、これからはじまる40年の荒野の旅の行く末を指し示します。さらには40年の荒野の旅を超えて、旧約聖書を貫き、新約聖書にまで、さらには今日この聖書を読んでいるわたしたちにまで貫かれている聖書のメッセージがあります。それはどこに神がおられるのかということです。もちろん神というお方は、どこかに限定されるお方ではありません。神がここにしかいてはならないということをではありません。神は自由なお方です。どこかの場所に限定されて押し込められているお方ではありません。自由な意志をもって、「わたしはここに住む」、「わたしはここに留まる」と仰せになられるお方です。聖書は神が雲の中におられる。雲というものが、神の臨在をあらわすと語ります。今日の聖書の箇所には、雲という言葉が6回繰り返されます。この雲というのは、「神」と言い直してよろしいものです。それゆえに《雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた》というのは、《神は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた》と言い換えてよろしいわけです。そこで今日はこの雲という言葉であらわされている神について、御言葉を通して聞いていきたいと願っています。

 

まず第1に神はどこに住まわれるのか。34節《雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた》とありますから、神は臨在の幕屋に住まわれ、そこに主の栄光が満ちています。その幕屋は雲という目に見えるものによって覆われて、主の栄光が光り輝いています。しかしそれはただ単に目に見える雲が幕屋を覆ったという目に見える現象以上のものです。モーセやイスラエルの民は、この幕屋に圧倒的に臨まれる臨在を実感します。敬わざるを得ない圧倒的に迫りくる畏怖すべき神の臨在です。イザヤ書6章であれば、イザヤが神殿で聖なる神さまの臨在に触れて、「わたしはだめだ。わたしは汚れた唇の民の中にある罪人である」と言わざるを得ないほどに圧倒的に神が迫ってくるというような臨在です。《モーセは臨在の幕屋の中に入ることができなった》とあるような圧倒的な臨在です。神がどこに住まわれるのか。神がどこにおられるのか。わたしたちが限定することはできませんが、神ご自身が自由な意志をもって、決意をもって、その幕屋に住まわれます。その幕屋は臨在の幕屋です。他の何ものでもありません。神の臨在がなければ、それは幕屋ではありません。臨在の幕屋以外に幕屋はありません。

それまで神はどこに住まわれていたのでしょうか。聖書を読む限り、雲の中に、それも山の上の雲の中におられました。出エジプト記19章からシナイ山での出来事が語られています。19章ではシナイ山の様子が描かれます。それは雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨んでいました。そして主なる神がシナイ山の頂に降り、モーセを呼び寄せます。24章には再びモーセがシナイ山に登ると、主なる神が雲の中から語られます。25章からがその語られた言葉になります。《わたしのために聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう》と仰せになられて、幕屋建築が命じられます。そしていよいよ幕屋が完成したのであります。そのとき何が起こったか。それを告げているのが今日の聖書の御言葉です。《雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた》。その幕屋が臨在の幕屋となります。シナイ山の頂の雲の中にいましたもう神ご自身が、雲をもってその幕屋を覆って、わたしがそこに住むと約束された幕屋に住まわる。ここにその名のとおり、臨在の幕屋が完成します。神は臨在の幕屋に住み給う。詩編139編がうたうように、神は世界のどこにでも臨在していてくださっているお方です。あなたの日々の歩みの中に臨在してくださっているお方です。ですからどこででも神に出会うことができます。祈ることができます。しかしその神御自身が、その自由な意志をもって、「わたしは幕屋に住む」と決意してくださいます。それゆえにこの臨在の幕屋に行くならば、神に出会うことができる。

 

次に第2のこととして、神はなぜ住まわれるのか。36節《雲が幕屋を離れて昇ると、イスラエルの人々は出発した。旅路にあるときはいつもそうした。雲が離れて昇らないときは、離れて昇る日まで、彼らは出発しなかった》。出エジプトをした直後には、昼は雲の柱、夜は火の柱がイスラエルの民を導いていきました。幕屋が建てられてからは、その幕屋に臨在し、住み給う神御自身が旅立つこと、留まることを導かれます。実際にイスラエルの民がシナイ山の麓から出発するのは、臨在の幕屋が建てられてから一か月後になります。民数記9章の終わりから10章のところに、その出発の様子が語られています。雲が離れて登ると出発します。部族ごとに出発し、レビ人が幕屋を畳み、壁板と横木をはずし、祭具を運びます。雲が留まると、再びそこに幕屋を建てて、その周りに部族ごとに宿営をします。そうした旅が繰り返されます。

主なる神がモーセに命じて、約束のカナンの土地を12名が偵察に行ったことがあります。その地の産物を持って帰ってきて、乳と蜜の流れる素晴らしい土地であるけれども、その土地の住民は強く、到底勝ち目はないと報告します。ヨシュアとカレブの二人は「断然登って行くべきです」と言いますが受け入れられません。エジプトに帰ろうとまで言います。モーセとアロンに不平を言い、ヨシュアとカレブを殺してしまおうとします。そのとき主の栄光が、臨在の幕屋に現われます。神は不平不満を語る民を怒り、モーセの執り成しの祈りを聞かれます。その結果、「向きを変えて出発せよ」との命令を受けます。それを聞いた民の中には、神の命令に嘆いて約束の地に向かって登って行こうとする。神の言葉に従わない民の姿が露呈します。結果として、せっかく目の前に迫った約束に地に入ることができず、40年の荒野の旅が続くことになりました。

雲が幕屋を離れて昇るならば出発し、留まるならば宿営する。それが40年の荒野の旅でした。神の導きの中で出発し、神の御心に従って宿営する。主なる神が神の民を選ばれ、集められたゆえに、神の民というのは神の導き、神の御心、神の言葉、神の命令に従う。神がなせということをなし、神がなれという者になる。それが神の民です。神の民は神の御業に仕えなければなりません。神の御業に用いられなければなりません。神の御業は救いの御業です。アブラハムを選び、あなたを通してすべての民が祝福されると約束され、イスラエルの民を出エジプトをもって救い、神の民とし宝の民とされたのは、神の救いの御業に用いるためです。全人類が罪に落ちたゆえに、神は救いの御業を実現し、神の民を用い、さらに神の民を集めようとされます。臨在の幕屋に神が住まわれるのは、神の民を神の救いの御業に用いようとしてくださるからです。

 

最後に神はどのように住まわれるのか。もう一度34節《雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた》。神はこのような幕屋を造りなさいと命じられ、その幕屋を雲をもって覆い、その幕屋と一体となり、その内に宿って臨在をあらわす栄光が満ち溢れさせます。神であられるお方が、幕屋と一体となってくださいます。神が幕屋のうちに住まわれる。さらに言えば、御自身を幕屋として地上に住んでくださる。

まさにこの御自身が臨在の幕屋となってくださったお方がイエス・キリストです。ヨハネ1:14《言は肉となってわたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた》。雲ではなく、言でありますが、臨在してくださるのみならず、肉をとって人間となってくださる。それがイエス・キリストです。《わたしたちの間に宿られる》とは、「幕屋を張る」という言葉です。雲の中に臨在される神が、御自身が住まわれる幕屋を建てることを命じられましたが、イエス・キリストは御自身が幕屋となってくださいます。神であるお方が、人となられるという仕方で、受肉されるという神秘をもって幕屋となってくださいます。十字架にかかられ息を引き取られたとき、神殿の至聖所を隔てている幕が上から下まで真二つに裂けました。もうその幕屋・神殿ではなく、イエスさまご自身が完全な幕屋となってくださって、ただ一度全き犠牲として十字架に死なれ、罪の贖いを成し遂げてくださいました。このお方が御自身の幕屋に住まわれます。キリストの体と呼ばれる教会を建てられ、そこに住まわれ、その十字架と復活による罪と死からの救いをもって神の民を集められる。神は御子イエス・キリストの受肉と十字架と復活によって幕屋に住まわれます。神はキリストの体である教会に住まわれます。もし神が教会に住まわれないとすれば、教会で神にお会いすることができなければ、それはまことの教会ではありません。まことのキリストの教会は《「まことに、神はあなたがたの内におられます」》とひれ伏して神を礼拝させる聖なる臨在が満ち溢れています。

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