日本キリスト教団 赤羽教会

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[礼拝説教]白い衣を着た人々

大友英樹牧師
2017年11月8日
ヨハネ黙示録 7:9-17

イエス様が十字架にかかられて、墓におさめられてから3日目の朝早く、その墓に行った女性たちに白い衣を着た天使が告げました。「その方はここにはおられない。復活なさったのだ」。今もエルサレムに行きますと、イエス様のお墓ではないかと思われる岩に掘った墓の扉に、この天使の告げた言葉が記されています。「その方はここにはおられない。復活なさったのだ」。この聖書に伝えられているイエス様の復活証言、そして復活されたイエス様にお会いしたという証人の証言、その証言を私たちもまた今日この礼拝で共に告白するのであります。「その方はここにはおられない。復活なさったのだ」。そのような主イエスさまの復活の喜びに心満たされながら、召天された方々を記念する聖徒の日の礼拝おいて、ヨハネの黙示録を学びたいと思います。
ここには復活の朝にイエスさまの墓に現れた天使のように、白い衣を着た人々が記されています。この白い衣を着た人々は、イエス様を信じ、受け入れ、そして自分自身も復活の恵みにあずかる聖徒たち、クリスチャンの群れを指しています。またこの白い衣を着た人々は大群衆であります。9節《この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って》いたとあります。クリスチャンである召天された方々も、そしてここに礼拝をささげる私たちも、この大群衆のなかに入れられていることを覚えたいと思います。この白い衣を着た人々、大群衆には、3つの特色があります。
まず第1はその白い衣を着るための条件であります。13節には《長老の一人がわたしに問いかけた。「この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか」》、そして14節で《長老はまたわたしに言った。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」》。小羊の血で洗って白くした。血で白くなる。普通に考えればありえないことでありましょう。そういう意味では象徴的な表現ということができるでありましょう。聖書には、たとえば詩編51編でダビデがバトシェバとの姦淫の罪を悔い改めた祈りで、罪を雪よりも白く洗ってくださいと祈っていますし、イザヤ書1章には罪が緋色のようであっても雪のように白くなるとあります。罪が赦されるということが、白くなるということであります。そしてレビ記17章には犠牲の血はそのなかに命によって罪を贖うことができるとあります。その衣を小羊の血で洗って白くする、それは贖いの血によって罪赦されるということであります。
教会での洗礼式では、洗礼を受ける人が白い衣を着て行うようになっています。古代教会ではイースターの朝に洗礼式が行われまして、礼拝ではじめて聖餐を受けることになっていました。その洗礼式では白い衣を着ていたわけですが、さらに次の日曜日までその白い衣を着ていたということであります。それでイースターの次の日曜日は、白衣の聖日と呼ばれていました。洗礼を受けるときに白い衣を着る。それはまさにヨハネ黙示録にあるように、その衣を小羊の血で洗って白くすること、イエス様の十字架の血潮によって、わたしたちの罪の贖いの血潮によって、罪赦されるということであります。それゆえに私たちが洗礼を受けるということは、白い衣を身に着けることであります。イエス様の十字架によって、わたしの罪が赦されたと信じますと洗礼を受けるときに、白い衣を着る者とさせていただくのであります。白い衣を着る条件は、イエス様の十字架を受け入れて罪の赦しをいただくことであります。
次に第2は白い衣を着た人々の広がりであります。先ほども読みましたように、9節には《あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って》いたとあります。この前には刻印を押されたイスラエルの民が14万4千人数えられています。旧約聖書において神の民として選ばれたイスラエルの民に刻印が押されるというのであります。そしてそれに引き続いて白い衣を着た大群衆が出てくるわけです。この刻印を押されたイスラエルの民は、まだ地上にいるのですが、白い衣を着た大群衆はすでに天にいるのであります。そしてその広がりは、世界的な広がりをもっているのであります。まさにそれはかつて神さまがアブラハムを選び、すべての民の祝福の基とするということが、イエス様によって実現している光景であります。かつてバベルの塔で言葉がばらばらになって、全世界に散っていった人々が、ペンテコステの日に同じ福音をそれぞれの言葉で聞くことになりました。イエス様が昇天されるときに、エルサレム、ユダヤ、サマリヤ、さらに地の果てに至るまで証人となると約束されたように、イエス様の福音は全世界に広がるのであります。今日世界のどれほどの国民、種族、民族、言葉の違う民が、イエス様が十字架に死んで復活してわたしを救ってくださったと賛美し、礼拝をささげていることでしょうか。私たちは先ほども「聖なる公同の教会を信じます」と告白しました。公同の教会というのは、世界に広がっている教会であります。5世紀の活躍した人はこう言いました。公同の教会というのはいつでも、どこでも、だれにでも信じられている信仰に立つ教会のことだと言いました。《あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って》いた。イエス様を信じる群れがこのような大群衆となっているのであります。私たちも、私たちの教会も、召天された方々も、白い衣を着て、そのような大群衆に入れられているのであります。
最後に第3に白い衣を着た人々の奉仕であります。15節《それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、昼も夜もその神殿で神に仕える。玉座に座っておられる方が、この者たちの上に幕屋を張る》。イエス様の血潮によって罪赦されて、白い衣を着させていただいて、大群衆の群れに加えていただいたのには、一つの目的があります。それは《神の玉座の前にいて、昼も夜もその神殿で神に仕える》ことであります。白い衣を着た人々の上には、幕屋が張られるとありますが、それは神さまの聖なる臨在をあらわしています。白い衣を着た人々には、聖なる臨在の中で、神さまに仕える奉仕が与えられています。他の奉仕ではなくて、神さまに仕える奉仕、つまり礼拝であります。「仕える」というのは、「礼拝する」ということであるからです。その後を読んでいきますと、もはや飢えることも渇くこともなく、悲しみの涙もぬぐわれて、ただひたすら神さまを礼拝する者とさせていただくのであります。
教会には様々な奉仕があります。ボランテア団体が近年多くありますが、教会というのはボランテア団体の元祖でありまして、イエス様を信じる者たちが自由に集まってくることころあります。それゆえに教会の働きはすべて奉仕であります。その奉仕は一つの目的をもっています。神さまを礼拝することです。礼拝こそが最大の奉仕であります。神さまを礼拝するということは、人間にとって最高の行い、最も美しい奉仕であります。自分の損得を考えることなしに、名誉や地位を考えることなしに、ただひたすら神さまのみを拝して、礼拝する。それが白い衣を着た人々の特権であります。この地上でひたすら神さまを礼拝をささげた者は、死にて天において挙げられるとき、白い衣を着た人々として永遠に神さまに礼拝をささげます。死にて人生を終える目的は、天において白い衣を着て、永遠に最も素晴らしい、最も美しい奉仕である神さまへの礼拝をささげるためなのです。天に召された方々はそのような礼拝をささげています。

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