日本キリスト教団 赤羽教会

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[礼拝説教]神に希望をかけています

大友英樹牧師
2017年12月3日
コリントの信徒への手紙二 1:8-11

パウロのエフェソでの3年間の伝道は、苦難と耐えられないほどの圧迫と生きる望みの喪失、さらには死の宣告を受けた思いであったと語ります。パウロに何があったのでしょうか。それが何であったのかは定かではありません。しかしいくつかの推測はできます。

一つめはエフェソでの騒動です。使徒言行録19章にはエフェソでのパウロの伝道の様子が記されています。パウロはユダヤ教の会堂を拠点として神の国について大胆に論じ、人々を説得したとあります。さらにティラノという人の講堂で毎日論じることが2年間続き、アジア州に住む者はユダヤ人であれ、ギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになったということです。またパウロの手を通して神の目覚ましい奇跡が行われ、魔術を行っていた者も悔い改めてその書物を焼き捨てました。そうした中でこの道のことで、つまりキリスト教信仰のことでただならぬ騒動が起こったのです。エフェソにはアルテミス女神の神殿がありました。その神殿はアテネのパルテノン神殿の4倍もあり、世界七不思議に数えられる建物でした。その神殿の銀の模型が売られて利益をあげていました。彼らはパウロが手で造ったものは神ではないと語っているゆえに商売の邪魔になるばかりか、アルテミス神殿がないがしろにされ、その女神の御威光が失われてしまうと言って、それを聞いていた者たちも「エフェソ人のアルテミスは偉い方」と2時間も叫び声をあげて騒ぎ出しました。パウロは同労者のガイオとアリスタルコが叫び続ける群衆に捕えられてしましましたので、その群衆の中に入ろうとしましたが弟子たちに押しとどめられました。

二つめはⅠコリント1532節に《単に人間的な動機からエフェソで野獣と戦ったとしたら、わたしに何の得があったでしょう》とあります。「野獣と戦う」といいますと、古代ローマのコロッセイオで野獣と戦う様子を思い起こさせます。しかしパウロはローマの市民権を持っていましたから、市民権を失わない限り野獣と戦うことはなかったはずです。そこでこのパウロの言葉は、比喩的な象徴的な表現と理解するのがよろしいようです。110年頃に殉教した司教イグナティウスの残したローマ教会に宛てた手紙にも「シリアからローマでわたしは獣と戦い続けています」と書かれていますが、それが象徴的な意味であることは言うまでもありません。野獣と戦ったと言うほどまでに、反対する敵、迫害する敵との戦いは心身ともに激しかったということでありましょう。それはⅡコリント11章で語られている数々の困難も含まれているかもしれません。

三つめはパウロの病気です。Ⅱコリント12章には《わたしには一つのとげが与えられました》と語っています。ガラテヤ4章にはパウロの様子について《わたしの身には、試練ともなるようなことがあったのに…あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してでもわたしに与えようとしたのです》と語っていることから、パウロは目の病気を患っていたと言われます。ガラテヤの最後は《わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています》とあるのも、「これから重要なことを書きます」という意味があるわけですが、パウロの目も関係があったとも言えなくはないかもしれません。

パウロは苦難、圧迫、生きる望みの喪失、死の宣告と語るように今すぐにでも押しつぶされそうになっていました。やがてローマの獄中で喜びの書簡と呼ばれるフィリピの手紙を記して、《わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです》と宣言するパウロにして、このアジア州エフェソで《死の宣告を受けた思いでした》と語る。パウロの外には反対者たちからの苦難や圧迫があり、1128節には《日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります》と語っていますから、内にはコリントの教会をはじめとした教会の悩みがありました。あの偉大な使徒であるパウロでさえ下を向いていた。うつむいていた。プレッシャーに押しつぶされそうになっていた。生きる望みを失い、死の宣告を受けた思いに打ちのめされています。そのパウロは神の慰めによって息を吹き返します。生きる望みを回復し、死の宣告への勝利を経験します。それは《神に希望をかけています》という言葉に端的にあらわれています。

《神に希望をかけています》。「上を向いて歩こう」という歌がありますが、心身ともに苦難と圧迫に打ちのめされて、顔を挙げることができず、下を向いてうつむくしかない者がどうやった上を向いて歩くことができるのか。上を向くとはどういうことだろうか。聖書は《神に希望をかけています》、神の上に自分の身を置きなさいと語ります。上を向いて空を仰いで、何と空は大きいのだろう、広いのだろう。それに比べて自分は何と小さいのだろうと自分の方に向いてしまうのではなくて、神に希望をかけなさい。それはどんな神なのでしょうか。

まず第1は死者を復活させてくださる神です。9節《それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました》。自分の上にではなく、神の上にゆだねる。それが神を頼りとするということです。具体的にはその神は死者を復活させてくださる神だからです。パウロが苦悩し、圧迫され、死の宣告を受けたとまで言わせるほどのプレッシャーの中で、死で人生が終わるという究極の宣告にまできたところで、死に勝利される力であるところ神、死者を復活させてくださる神がおられる。死者を復活させてくださる神ということで、イエスさまの十字架の死と3日目の復活のことを思い起こします。神は御子を十字架の死にささげられ、我らの罪の支払う報酬である死に渡され、3日目に復活させられて死に勝利をもたらされました。イエス・キリストの十字架と復活をもたらした神です。しかし聖書をよく見ますと、これはイエスさまを復活させた神ではなくて、死者を復活させてくださる神と書いてあります。イエスさまの復活はすでに起ったただ一度のことです。今日に至るまでまことの復活というのは、イエスさまの復活だけです。しかし復活というのはイエスさまだけのものではありません。死者を復活させてくださる神、イエスさまを救い主と信じる者をこれからも復活させ続けてくださる神です。世の困難、試練、悩み、苦しみ、圧迫のなかで、死の宣告を受けた思いの中で、わたしたちが見上げ、信頼を置く神は、最後の敵である死に勝利をもたらす復活させてくださる神です。

もう一つは救ってくださる神です。10節《神はこれほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています》。過去に救ってくださった神は、今も救ってくださる神であり、将来も救ってくださる神であるという信仰の告白があります。《イエス・キリストは昨日も今日も、また永遠に変わることのない方です》との御言葉がありますが、わたしたちの神さまはこのイエスさまの十字架と復活の力によって、昨日の今日も永遠に救ってくださるお方です。

ここでの「救う」という言葉は「解放する」という意味の言葉です。救いとは解放されることです。イエスさまの十字架と復活の力によって、昨日も今日も永遠に救ってくださる、解放してくださる。それは罪の贖いの恵みです。罪の解放の恵みです。そして罪の支払う報酬である死から解放の恵みです。死者を復活させくださる神は、罪と死から解放してくださるお方です。この神に希望をかけています。

わたしたちは今日からイエスさまの降誕を待ち望むアドベントに入り、クリスマスを迎えようとしています。クリスマスの恵みは、神が御子を遣わしてくださって御自身が死者を復活させてくださる神であること、そしてその御子によって昨日も今日も永遠にわたしたちの罪と死の解放者である神を明らかにしてくださったことにあります。この神に御頼りし、この神に希望をかける。

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