日本キリスト教団 赤羽教会

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[礼拝説教]互いに愛し合うべきです

大友英樹牧師
2018年1月8日
ヨハネの手紙一 4:7-12

ヨハネの教会の中から異端が現われて、彼らが教会を離れてきました。そうした教会再建のために2つの柱が建てられました。一つは「イエス・キリストはまことの神、まことの人である」というキリスト信仰、もう一つが「愛の交わり」です。教会から離れていった異端が現われたことで、揺れている、戸惑っている、そして教会のメンバーの間に疑心暗鬼が生じているような中で、《互いに愛し合いましょう》との勧めの御言葉に続いて、《互いに愛し合うべきです》という命令調の御言葉が続いています。

《互いに愛し合いましょう》という勧めには、3つの愛の特質がありました。第1は神がお与えになった無条件の愛、アガペーの愛です。第2はわたしたちをして新しく生まれ変わらせる神の愛です。そして第3が神への信仰によって湧き出る愛です。そうした愛をもって《互いに愛し合いましょう》との勧めがなされるわけです。それに引き続いて語られているのが、《互いに愛し合うべきです》という命令調の御言葉です。《互いに愛し合うべきです》というのは、《互いに愛し合いましょう》という勧めの言葉よりも、少々強い言い方です。教会に集うわたしたちは互いに愛し合うべきです。それは義務というよりも、そうせざるを得ない必然があるということです。キリストの教会は、愛し合うこと、愛の交わりがあることが、義務ではなく必然であるということ、これはとても重要なことです。それが義務であるならば、それはそもそも愛の交わりではありません。命令される愛の交わりというのは、そもそも愛の交わりではありません。「愛しなさいと命令されたので、わたしはあなたを愛します」などというのは、実におかしな話です。それはちょうどボランティア活動というものが、自発的にボランティアに参加しようというその意志や目的をもって行われるようなものです。もし強制的にボランティア活動をさせられるとするならば、ボランティア活動ではありません。そうせざるを得ないという義務ではなく必然があるとき、理由があるとき、根拠があるとき、ボランティア活動が本来のものとなっていくわけです。《互いに愛し合うべきです》とは義務ではなく必然から命じられています。そうせざるを得ない理由が、根拠があるからです。教会はその必然、その理由、その根拠のゆえに《互いに愛し合うべきです》という御言葉に導かれる。その必然、その理由、その根拠とは神の愛そのものです。《愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです》。どのようにわたしたちは神さまから愛されているのでしょうか。神さまの愛というのはどのような性質なのでしょうか。
聖書は神さまの愛は派遣であると語ります。今日の聖書には派遣という言葉が出てきます。9節《神は、独り子を世にお遣わしになりました…ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました》。10節にも《御子をお遣わしになりました。ここに愛があります》。神さまの愛は、御子イエスさまをこの世に遣わしてくださることに現われています。イエスさまを遣わしてくださるということは、ヨハネ福音書3:16に《神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである》とあるように、聖書の中心メッセージであり、神さまの愛そのものであります。
しかし神さまが御子イエスさまをこの世に遣わしてくださるということは、当然のことなのでしょうか。それともそうせざるを得ない必然なのでしょうか。もしそれが当然なことであれば、御子イエスさまが遣わされるということは決して驚くべきことではありません。神さまにとっては当然のことですから、わたしたちが感謝すべきことでもありません。それは義務のようなものですから、当然なことであって、無条件のアガペーの愛ではありません。さらにはアガペーの愛ではないばかりか、親子の愛情や友情などのフィレオ―の愛でもありませんし、エロースの愛でもありません。つまり当然なことであれば、それは愛ではありません。
神さまが御子イエスさまをこの世に遣わしてくださるとは、どういうことなのでしょうか。聖書はそもそも神さまというのは、御自身の中で愛の交わりが満ち溢れていると語っています。イエスさまは父なる神さまに親しく「アバ父よ」と呼びかけて、《わたしと父とは一つである》(ヨハネ10:30)と言われます。また《父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊》(ヨハネ14:26)がイエスさまに代わる別の弁護者として遣わされるとも言われます。わたしたちは聖書を読むときに、イエスさまを通して、神さまが父・子・聖霊なる三位一体なるお方であることを教えられます。そしてその父・子・聖霊なる神御自身が、その内にあって愛の交わりが充満しておられる。それゆえに神さまは愛の交わりが足りなくて、それを補うために天地を創造され、被造物を創造され、人間を神のかたちに創造されたのではありません。神さまはわたしたち人間を愛する必要があるから、そうでないと神さまの愛が充満せられないから、人間を創造され、愛されたのではありません。神さまは天地を創造しなくても、被造物を創造しなくても、人間を神のかたちに創造されなくてもよろしいわけです。そんな義務はありません。神さまの内で愛が充満しているからです。その神さまの内にある愛の交わりの充満が神さまの外に注がれて、天地創造の業をなし、人間をはじめとした被造物をお造りになったのであります。神さまが天地を創造され、被造物を創造され、人間を神のかたちに創造され、神から離れて罪に落ちた人間を救うために御子イエスさまを派遣され、十字架にかけられ、復活させられ、聖霊を注ぎ、教会を建てられる。それはすべて神さまの内で充満している愛の交わりにわたしたちを招きたいと願っておられるアガペーの愛そのものです。
神さまの愛は派遣する愛です。それは神さまの内で充満しきっている愛、この愛の交わりへと招くために愛が派遣される。何といっても御子イエスさまが遣わされたということ、《神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります》と語られるように、イエスさまそのものが愛の派遣です。しかしイエスさまの派遣だけではなくて、天地創造も、被造物の創造も、人間を神のかたちに創造することも、御子を派遣することも、十字架にかけられることも、復活させられることも、聖霊を注いで、教会を建てられることも、教会を用いて神の救いに御業を進められることも、すべて神の愛の派遣です。別の表現で言えば、神の決意です。神は愛することを決意される。それは決して当然のことではありません。アガペーの愛の充満のゆえに、ぜひこの愛の交わりにあずからせたい、そうせずにはおれないという愛の派遣、愛の決意です。
《愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです》。教会というのは、この神の愛の派遣、神の愛の決意を知っている群です、信じている群です、証しする群です。決して《互いに愛し合うべきです》とは義務ではありません。イエスさまの十字架にあらわれている神の愛の派遣、神の愛の決意が、そうせざるを得ないお互いとさせいただいているのであります。義務としてではなく、命令としてでもなく、神さまに愛された者であるお互いであるゆえに、この御言葉を実践してまいりましょう。

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