日本キリスト教団 赤羽教会

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[礼拝説教]互いに愛し合うならば

大友英樹牧師
2018年1月15日
ヨハネの手紙一 4:7-12

ヨハネは教会の中に反キリストと呼ばれる異端が発生し、彼らが去って行ったあと、教会を再建する柱として、明確なキリスト信仰と互いに愛し合うことを2つの柱として掲げました。今年の教会聖句、7節《愛する者たち、互いに愛し合いましょう》との勧めは、神の無条件の愛、アガペーの愛によって救われ、信仰を与えられた教会に集うクリスチャンたちへの言葉です。それはまたたんなる勧めに終わるだけではありません。

11節《愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです》と強制的に義務づけられるということではありませんが、互いに愛し合うべき必然があるというわけです。それは神の愛が御子を派遣することにあるからです。御子イエスさまの救いの出来事、十字架と復活の御業はまさしく神さまの愛の御業であります。何のために御子が派遣されたのか。十字架に死なれ、罪の贖いを成し遂げて罪を赦し、わたしたち人類に救いをもたらすためです。お互いはその神の派遣という神さま愛をいただいて、神さまとの愛の交わりに入れていただいています。神さまがわたしたちを愛されたのですから、その愛をいただいたお互いが愛し合うべきですと命じられ、勧められるわけです。

そして第3の勧めが12節になります。《いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内に留まってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです》。「わたしたちが互いに愛し合うならば」、どういうことが起こるのでしょうか。いったい何が明らかになるのでしょうか。それが今日の御言葉です。そこで二つのことを心に留めたいと思います。

 

第1は神がおられる証しです。《いまかつて神を見た者はいません》。聖書の神は見ることができません。モーセがシナイ山で十戒をいただくとき、神さまにモーセは出会います。しかしそれは《わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う。わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない》と神さまの後姿を見ると語られています。モーセは神さまと語って顔の光を放っていたともあります。またイザヤは神殿で《わたしは高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた》とあって、衣を見たわけですが、イザヤは「わたしはもうだめだ。わたしの目は万軍の主を仰ぎ見た」と言って恐れおののいています。

わたしたちは神を見ることはできません。聖書はヨハネ1:18に《父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである》と語っています。まことの神であり、まことの人であるイエスさまのみが神がおられることを明らかにされます。ですからわたしたちはイエスさまに出会うことによってのみ、本当の意味で神さまにお会いすることができます。もちろんイエスさまがお生まれになっていない旧約聖書の時代には、神さまにお会いできなかったということではありません。イエスさまは地上にお生まれになっていなかっただけで、永遠におられるお方ですから、神さまがアブラハムに御自身を現されたとき、永遠にいますイエスさまがそこにいてくださいます。そうでなければ、アブラハムも、モーセも、イザヤも、神さまに出会うことはできません。それは彼らの目には隠されていました。隠されていただけであって、永遠の御子イエスさまはおられます。そのお方が2000年前、独り子なる神として、まことの神、まことの人としてお出でくださった。そして十字架に死んでくださった。復活してくださった。救いの御業をあらわしてくださった。このお方を愛するわたしたちが互いに会い合うならば、何が起こるのでしょうか。

《わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内に留まってくださり》とあります。「わたしたちの内」というのは、お互いの心の内にということもありますが、されには教会の内にということです。わたしたちお互いの心の内に神さまが臨在してくださるのみならず、教会の内に神さまがいらっしゃるということが重大です。もし教会の内に神さまがいらっしゃらないとするならば、ご臨在されていないということであるならば、それは教会ではありません。建物の姿かたちは誰が見ても教会かもしれませんが、神さまがその内におられなければ教会ではありません。

この聖書の御言葉は注意して読まなくてはなりません。《わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内に留まってくださり》と語っていますから、ここには訳されていませんが、「もしわたしたちが互いに愛し合うならば」というようになっていますので、一つの条件のように読むことができます。聖書にはしばしばこの「もし~ならば」という表現が用いられています。その場合、通常では「もし~ならば」という条件に続くのは、「~であろう」というように未来を表わすことばが続きます。例えば、Ⅰヨハネ1:9にある有名な御言葉、《自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます》は、「もし自分の罪を公に言い表すなら」という条件があって、それに続いて「罪を赦し、あらゆる不義から清めてくださいます」というのは未来形の言葉となっています。救いには罪の告白、悔改めが条件であって、その条件が果たされるときに、罪の赦しときよめが与えられるという時間的な順序があります。「もし」というのは現在のことであり、その条件が果たされて実現することは未来のことであるという言い回しです。

しかしながら、今日の御言葉はそのようにはなっていません。「もしわたしたちが互いに愛し合うならば」と一つの条件を表わしていますが、それに続く文章は未来形ではありません。「神はわたしたちの内に留まってくださる」というのは現在形です。「わたしたちの内に留まってくださるであろう」と語っていません。「互いに愛し合うこと」と同時に「神はわたしたちの内に留まってくださる」のです。

《いまだかつて神を見た者はいません》。ですから神がいるなら、その証拠を見せよと言われます。それで神の民であっても偶像なるものが造られ、これが出エジプトの救いを与えた神であると言ってしまう。聖書は神が確かにおられる証し、神がいらっしゃるしるしは、《わたしたちが互いに愛し合うならば》と語ります。イエスさまを愛する愛の交わりのあるわたしたちの教会にこそ、神がおられるという証しです。互いに愛し合うことと同時に神の臨在は起こります。愛の交わりの豊かな教会の内に、神さまはご臨在なさりたいと願っておられます。

 

第2は神の愛の目的です。《わたしたちが互いに愛し合うならば、…神の愛がわたしたちの内で全うされているのです》。これもさきほどと同じで、未来形ではなくて現在形です。愛の交わりの豊かなわたしたちの教会にあって、神さまの愛の目的が全うされている、成就されているということです。わたしたちが互いに愛し合うことと、神さまの愛が全うされるというのは、少し不釣り合いのような感じがします。神さまの愛の御業はイエスさまを遣わしてくださったこと、十字架につけてくださったこと、罪を贖ってくださり、復活によって永遠の命を与えてくださったことに究極します。その神さまの愛の御業が不十分であるわけはありません。わたしたちが互いに愛し合うことによって、神さまの何か不足している愛が満たされるというわけではありません。神さまが世を愛してくださり、御子を派遣してくださり、その救いの御業をなしてくださった神の愛は、全うすること、成就することを願っておられます。《神の愛がわたしたちの内で全うされているのです》というのはまさにそれが成就し、実現しているということです。それが互いに愛し合う群であることです。神の愛がわたしたちの内で全うされる目的、それが互いに愛し合うことです。

具体的どのようにわたしたちは互いに愛し合うならば、神の愛がわたしたちの内で全うされているのでしょうか。何といっても共に礼拝をささげることです。礼拝は互いに愛し合うことを実践します。礼拝でわたしたちは互いに賛美をささげます。賛美が上手なことはそれにこしたことはないでしょうが、それ以上に重要なことは、ジョン・ウェスレーの勧めを挙げれば、「一人残らず歌え」、「勇敢に盛んに歌え」、「慎み深く歌え」、「遅れないように歌え」、「とりわけ霊的に歌え」ということです。愛し合って礼拝をささげることなしには、そのように賛美をささげることができません。

祈りにしてもそうです。愛の交わりになしに「アーメン」と心を合わせることができません。互いに愛し合うことなしに執り成しの祈りはささげられません。愛ゆえにこの方のために、あの方のためにと、重荷をもって、祈りをささげることができません。

さらに聖餐の交わりは、愛の交わりそのものです。神さまの愛の交わりとともに、共にこの神さまの愛をいただいている兄弟姉妹、神の家族であることを実感するときです。Ⅰコリント11章に《あなたがたが教会で集まるとき、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。…それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはなりません》と警告されています。愛の交わりのない聖餐、それは矛盾する聖餐です。互いに愛し合い、共に聖餐を祝うとき、そこに神の愛の交わりがお互いの内に全うされていきます。

 

わたしたちが互いに愛し合うとき、わたしたちの内に、教会に、何が起こりますか。《いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内に留まってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです》。

 

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