日本キリスト教団 赤羽教会

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[礼拝説教]神に委ねられる

大友英樹牧師
2018年4月16日
Ⅱコリント4:1~6 

1節《こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているので、落胆しません》。パウロは誰からこの務めをゆだねられているのでしょうか。誰からゆだねられたのか明言されてはいませんけれども、それは神ご自身であり、御子イエスさまであることは言うまでもありません。パウロのゆだねられている務めは、自分で選びとったものではありません。憐れみを受けた者としてこの務めを選びとったのではなくて、ゆだねられています。イエスさまがヨハネ福音書15章で、《あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。…わたしがあなたがたを任命したのである》と仰せになっていますが、その御言葉のようにパウロがこの務めを選んだのではありません。神さまがパウロにこの務めをゆだねたのです。

実は、わたしたちの聖書には「この務めをゆだねられた」と書いていますが、「ゆだねられた」というのは解釈を加えた形で意訳してあるものです。直訳すれば「持っている」ということです。そこでいくつかの聖書を見比べてみますと、「この務めについている」、「この奉仕をなしている」、「奉仕の務めを受けている」、「この務めに従事する」というように訳されています。そうしたいくつかの翻訳を見比べてみますと、わたしたちの聖書が「この務めをゆだねられている」と訳しているのは、よい翻訳であるなと思います。自分で選んだのでも、勝ち取ったのでもなく、神さまからゆだねられている。神さまが信頼してくださって、ゆだねてくださっている。わたしたちはしばしば、様々な重荷や課題を経験するときに、詩編55編に《あなたの重荷を主にゆだねよ》とあるように、神さまにおゆだねることを教えられています。「この課題をあなたにおゆだねします。わたしの歩みをあなたにおゆだねします。」というように祈ること教えられています。しかしここでは反対です。神さまの方がこの務めをゆだねられる。具体的には、神さまの救いの御業を宣べ伝えることをゆだねられます。神さまが全能の力をもって、その救いの御業を宣べ伝えてくださるならば、どんなに効果的に、速やかに、圧倒的な力をもって世界中に伝えられることでありましょうか。ただ伝えられるだけではなくて、救われる者が次々に起こされていくのではないでしょうか。しかし神さまは、ご自身がなしてくださった救いに御業を、わたしたちにゆだねられます。神さまはパウロに、教会に、すべてのキリスト者にゆだねられます。この務め、福音宣教の務めをゆだねられています。その福音宣教の務めは、自分自身を推薦することです。2節《かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます》。パウロはすでに3章のはじめに《わたしたちはまたもや自分を推薦し始めているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、わたしたちに必要なのでしょうか》と語っていました。パウロの使徒としての資格問題がコリント教会の中にあったようで、それに対して自分が使徒であるとの推薦状があるとすれば、コリント教会のあなたがたこそがわたしの推薦状ですと語っていました。この「推薦する」という言葉が、実はこの4章2節にある《神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます》とありますが、「ゆだねます」というのは「推薦する」という同じ言葉が用いられています。他の聖書では「推薦する」と訳されています。

もちろん「自分自身を推薦する」と言いましても、自分をアピールするわけではありません。自分を人よりも前に出すわけではありません。そうではなくて、「自分自身を推薦する」というのは、「救いの恵みをいただいているわたしを見てください」ということです。「わたしは神さまから憐れみをいただきました」。「イエスさまという愛をいただきました」。「十字架によって罪赦されました。わたしは新しく生まれ変わりました」。「わたしは神さまに出会いました。このわたしを見てください」。そういう意味での「自分自身を推薦する」ということです。人の救いの物語ではありません。わたしの救いの体験です。ですから自分自身を推薦するのです。「わたしは救いの恵みをいただきました」と証しするということです。

「自分自身を推薦する」ときに、3つのことに注意しなければなりません。第1は「落胆しない」ことです。1節に《この務めをゆだねられているのですから、落胆しません》。「わたしは救われました」。そのようにわたしたちが証しをはじめますと、人々は関心を持つかと言えば、必ずしもそうではありません。家族に分かち合いたいとしても、理解してもらえないことも多いのです。家族のために、友人のためにわたしが救われたように救われるようにと祈ってもすぐに結果が出るわけではありません。神さまからゆだねられている福音伝道の御業というものは、すぐに実を結びものでもありません。そんな経験を重ねますと、わたしたちは落胆する。失望する。恐れる。そんな思いを抱くものです。「もうそのようなことはすまい。自分だけの救いを大切にしていこうというような内向きな信仰生活を送って行こう。静かに教会生活をして行こう」というような、自分自身を推薦しなくなる。しかし忘れてはいけません。この務めは自分自身で選んだのではありません。神さまがゆだねられているのです。神さまが責任を取ってくださるのですから、わたしたちが落胆することはありません。失望することはありません。わたしたちが自分で選んで立ちあがったのであれば、落胆することもあるでしょう。神さまがわたしたちを用いてくださるのですから、落胆しなくてよいのです。

第2は「神の言葉を曲げない」ことです。2節《かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます》。「神の言葉を曲げず、真理を明らかにする」とパウロは語ります。パウロは神の言葉が曲げられていると考えていると考えたのでありましょう。しかしわたしは神の言葉を曲げない。この場合の神の言葉というのは、パウロが語り伝える福音のメッセージということもできるでしょう。さらには3章とつながりからすれば、モーセが旧い契約、聖書を読むときに顔に覆いをしたように、人々の聖書の御言葉が覆われてしまっている。そして主の方に向き直れば覆いが取り去られるように、イエスさまの十字架の光から聖書の御言葉が開かれていく。聖書が指し示すメシアこそイエスさまである。十字架に死なれ、復活されたイエスさまである。そういう聖書の御言葉、それが神の言葉であるということができます。「神の言葉を曲げない」ということは、聖書に書いてあるとおりに信じるということです。聖書の約束の御言葉を信じることです。「この聖書の御言葉がわたしのうちに成就すると信じることです。「神の言葉を曲げない」ということは、聖書が標準であるということです。わたしたちの信仰告白には「聖書は信仰と生活との誤りなき規範なり」と告白しています。信仰の標準であるということは、「神さまはどういうお方なのか、何をしてくださったのか、救いと何か」というようなキリスト教信仰の内容は聖書に基づいているということです。キリスト教の信仰、教理というものは、聖書に基づきます。しかし聖書は信仰や教理の標準だけではありません。キリスト者として生きることの標準です。わたしたちは聖書の御言葉に照らされて、その生き方を定めます。KGKの大学生たちは、多様な価値観、多くの情報にあふれている中で、聖書が信仰と生活の標準であることを教えられています。そうでなければ、キリスト者といいながらも、神の言葉を曲げてしまって、この世の基準、この世の価値観に流されてしまいます。現代の風潮からすれば、神の言葉を曲げないというのは、なんと古臭い、なんと保守的なことかと思われることでありましょう。しかし神さまの御心、今も昔も変わらない神さまの御旨が聖書にあります。わたしたちは聖書の御言葉を曲げてはなりません。

最後に第3は「イエス・キリストが主である」と告白することです。5節《わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています》。「自分自身を推薦する」とは言いましても、それはこの5節の御言葉にあるように、イエスさまを宣べ伝えることです。「自分自身を推薦する」ということは、「わたしはイエスさまに救っていただきました」、「イエスさまの十字架と復活を信じて、わたしは罪赦されたのです」とイエスさまを証しすることです。その証しが神さまからゆだねられています。

この「自分自身を推薦する」、つまりわたしはイエスさまの救いをいただきましたと証しすることはなかなかできないと言われるかもしれません。わたしたちは聖日ごとに礼拝をささげています。礼拝ではわたしたちにその務めをゆだねてくださった神さまの前で自分自身を推薦することになります。「わたしは神さまの救いをいただきました。イエスさまの十字架を今日も崇めます」というようにして礼拝をささげます。そこでわたしたちは何をしているのでしょうか。聖書の中で一番簡潔な信仰を告白しています。聖書ではたった2文字です。「イエスは主である」。5節で何と言われていますか。《主であるイエス・キリストを宣べ伝えています》。宗教改革者ルターの翻訳した聖書には「わたしたちはイエス・キリストが主であると宣べ伝えています」とあります。わたしたちが今日も礼拝で宣べ伝えていることは、「イエス・キリストが主である」という信仰告白です。礼拝をささげること、それこそが最大の自分自身を推薦することです。わたしはこういう者ですと自分自身を推薦するのです。「わたしはイエスさまによって救われました。わたしはイエスさまが主であり、救い主であると信じています」。礼拝はそのように自分自身を推薦します。

神さまからゆだねられている福音宣教の務めのために、イエスさまの救いを証しする務めのために、わたしたちは自分自身を推薦します。わたしたちにゆだねられていることは、落胆しないように、神の言葉を曲げないように、礼拝でイエス・キリストが主であると告白し続けることです。

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