日本キリスト教団 赤羽教会

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[礼拝説教]土の器

大友英樹牧師
2018年4月23日
 Ⅱコリント4:7~15    

《ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています》(7節)。このような宝というのは、イエスさまの福音、イエスさまの救い、イエスさまご自身のことです。わたししたちはこの宝をゆだねられています。その宝をゆだねられているわたしたちは、土の器になぞらえられています。その宝を保管するときに、器、入れ物に保管しておくというイメージです。土の器とは普通の日常で用いられるものです。Ⅱテモテ2章には《大きな家には金や銀の器だけではなく、木や土の器もあります。一方は貴いことに、他方は普通のことに用いられます》とあります。土の器は普通のことに用いられるものです。わたしたちの家にも高価な器がある場合には、普通の食事の時には用いることはないでありましょう。特別な食事の時には高価な器を用いるとしても、普段の食事には日常で使われる普通の器が用いられるものです。しかしここでイエスさまという宝を納めておく器が、土の器であるありますが、それは高級料理を普通の器に盛るようのものでバランスがよろしくありません。本来ならば、イエスさまの福音は、金や銀の器のように、貴いことに用いられる器に納めておく宝であります。土の器のような普通の器にはふさわしくない宝であります。イエスさまという宝は、《この並外れて偉大な力神のものであって、わたしたちから出たものではないことが明らかになるために》とあるように、「並外れて偉大な力」、それはこの世の権力がどんなにその力を奮ったとしても勝ち得ることがない、人間の最大の門である罪と死の問題を解決し、そこから解放し、圧倒的な勝利をしてくださる、そのような並外れた偉大な力であります。それは世界の粋をきわめた輝くばかりの宝が納められるふさわしい器があるように、それにふさわしい器に納めることがふさわしい「並外れて偉大な力」であります。土の器というものは、ふさわしくない器であります。普通の器、平凡な器です。しかし聖書はイエスさまという宝は、土の器に納められていえる。土の器にゆだねられていると語っています。土の器とは、このわたしのことです。あなたのことです。わたしは土の器であります。あなたは土の器であります。普通の、平凡な、取るに足りないこのわたしがイエスさまという宝を納めている土の器です。土の器であるわたしたちのうちに納められている、並外れて偉大な力であるイエスさまという宝は、わたしたち土の器に何をもたらしてくださるのでしょうか。2つのことを挙げたいと思います。

第1は慰めです。8節からしばらくお読みします。《わたししたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちはいつイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現われるために》。パウロはしばしばイエスさまの福音を語り伝える者として、さまざまな試練を経験したことを語っています。Ⅱコリント1章にも《兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました》とありますし、11章には《苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした》ともあります。イエスさまも《あなたがたには世で苦難がある》と言われます。

パウロのような経験、代々の聖徒たちが受けてきた経験、それは厳しいものもありました。《キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます》とあることは歴史が物語っています。ホーリネスの先達たちが戦時中の受難を経験したことも、その一つであります。そこまでいかないにしても、わたしたちの生涯には様々な戦いがあるわけです。パウロの言葉で言えば、「四方から苦しめられる」、「途方に暮れる」、「虐げられる」、「打ち倒される」というような経験です。嘆き、悲しみ、痛み、失望、恐れ、不安、悩み、苦しみ、怒り、嫉み、人生の戦いをするなかで、同時にそうした感情が沸き起こってまいります。殊に、キリスト者であるゆえの困難や苦悩というものは、悩ましいものであります。伝道地である日本では、そうした経験はしばしば起こってまいります。わたしは土の器ですから、ごく普通の、平凡な、決して強くない土の器ですから、もっとふさわしい、もっと力強い、金や銀の器のような立派な人物がいるではないですかと呟いてしまうような出来事に遭遇します。

でもイエスさまはそんな土の器であるからこそ、このわたしを通してイエスさまという宝をあらわしてくだいます。「行き詰まらず、失望せず、見捨てられず、滅ぼされない」。それは自分の力ではありません。イエスさまの十字架の力です。十字架が慰めてくださる。十字架が背負ってくださる。十字架が助けてくださる。10節《わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています》。「いつもイエスの死を体にまとう」。この後を読み進めると、死と負いう言葉が何度か出てきます。しかしこの10節の「イエスの死」というのは、原文ではこの後に出てくる死とは言葉が違います。こんなふうに訳しているものもあります。「常にイエスの殺害をこのからだに負って歩きまわっている」、「いつもイエスの死に瀕した状態を体に帯びています」。つまりどういうことかといいますと、「いつもイエスの死を体にまとっています」というのは、「イエスさまが十字架にかかられて、死を遂げられようとしている」、「十字架に死につつある」ということです。わたしたちが経験する様々なこと、四方から苦しめられるような、途方にくれるような、虐げられるような、打ち倒されるような経験、イエスさまはいつもそういったものを背負ってくださって、十字架に死んでくださっているということです。確かに2000年前、イエスさまは十字架に死なれました。一度限り死なれたのです。しかし霊的な恵みとしては、イエスさまは今日も十字架に死なれ続けてくださっています。あなたの重荷を、あなたの苦しみを、あなたの悩みを全部引き受けて、それもことごとくわたしが十字架で引き受けて死んでいる。わたしたちが経験するありとあらゆることを御存じであるイエスさまは、それらを担って十字架に死んでくださっています。そんなイエスさまがわたしを包み込んでくださっている。イエスさまが十字架によって全部背負ってくださり、わたしを包み込んでくださる。土の器であるわたしたちには、十字架の慰めがあります。

 

2つ目は命です。土の器であるわたしたちの内に現われるのは命です。10節《イエスの命がこの体に現われるために》。英語訳の聖書では「イエスの命が、目に見えるようになる」とあります。先日、淀橋教会で開かれた「首都圏イースターの集い」で、岸先生がメッセージの中で語られていましたが、聖書では命というのは2つの言葉で区別されています。一つはビオスという命です。英語のバイオテクノロジー(生物工学)というのは、ビオスの科学技術ということで研究がなされています。ビオスというのは自然の命です。肉体としての命、誕生から死に至るまでの間の命です。もう一つがゾーエーという命です。イエスさまがヨハネ11章で「わたしは復活であり命である。わたしを信じる者は死んでも生きる」と語られたときに命はゾーエーの命です。自然の命ではありません。死で終わる命ではありません。ゾーエーの命は、神さまの命です。霊的な命です。ですから死を知らない命です。

10節《イエスの命がこの体に現われるために》、11節《わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています。死ぬはずのこの身にイエスの命が現われるために》。この命はゾーエーの命です。土の器である普通の平凡な弱い壊れやすいわたしですが、その内にはイエスさまの命が、死に勝利された復活のイエスさまの命が、死で終わる命ではなく、神の命、永遠の命が漲っています。外なるビオスの命は、終わりに向かっています。弱くなっていきます。しかし内なるゾーエーの命は、終わりなき神の命ですから、ますます輝き出でる。わたしたちには2つの命があります。ビオスの命、自然の、肉体の命があります。ゾーエーの命、死に勝利された復活されたイエスさまの命、神の命、霊の命です。肉体の命の死、ビオスの命の死は、いつかは訪れます。ゾーエーの命、神の命は死ぬことはありません。ですから土の器であるわたしたちにとって、地上のビオスの死は、永遠の命、ゾーエーの入口なのです。土の器であるわたしたちが証しすべきことは、イエスさまの命、ゾーエーの命がある。神の命がある。永遠の命があるということです。土の器であるわたしたちに漲っているのは、イエスさまの命、ゾーエーの命です。

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