日本キリスト教団 赤羽教会

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[礼拝説教]だから落胆しません

大友英樹牧師
2018年5月6日
 Ⅱコリント4:16~18    

16節《だからわたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます》。「だから落胆しません」。わたしたちの聖書は、この4章のはじめにそのように断言するように、この終わりのところで再び断言します。その理由が引き続いて語られます。《たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます》。
通常わたしたちは外なる人、つまり肉体をもつわたしたちは年齢を重ねていくことによって衰えを経験します。急速に高齢化社会を迎えていますが、そうした中で、外なる人は衰えていくことで、これまでにない課題が次々と起こっています。たしかに外なる人は衰えていきます。体力が落ちてくる。反応が遅くなる。年齢を重ねていきますと、マイナスとなることが多くなる。何もかもが右肩下がりになってくる。そういった身体的なことだけではなくて、仕事を退職することでそれまでの社会的な関係が失われます。家族や友人との死別を経験することが多くなります。そのようなことも含めて、外なる人は衰えていく。それは間違いないことです。
しかし最近の発達心理学の分野では、人間というものは幼年期、児童期、青年期と成長、発達していくはいうまでもありませんが、人間というのは人生の秋を迎える高齢期にあっても発達し成長していくとされるようになっています。それは人間的な成長、円熟と言われる面に顕著にあらわれてくると言います。発達心理学者の研究では、若い時に比べて高齢期になって「人の立場や気持ちがわかるようになった」、「いろいろな角度から物事を見ることができるようになった」、「素直に感謝できるようになった」、「季節の移り変わりに敏感になった」というような統計があるそうです。そうした発達心理学の研究がいる人間的な成長、円熟というものは、内なる人ということができるでありましょう。外なる人、身体的な面では衰えていきます。しかし内なる人、人間的な円熟という面が成長する。こうした人間的な円熟というものが、内なる人であるとすれば、その最たるものは信仰の成長、成熟であります。先程あげました様々な人間的な成長、成熟というものがありますが、聖書が語るところの内なる人の成熟、内なる人が日々新しくされていくということは、そうしたものよりも深い、人間の深みの達するほどの霊的な信仰的な成長、成熟であります。
ではその内なる人、霊的な成熟とは何でありましょうか。これまで語られてきたことによれば2つ挙げることができます。第1は主と同じ姿に造りかえられることです。3:18《わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです》。主と同じ姿に造りかえられるということは、イエスさまのようになるということです。それは神さまとの豊かな交わりに生きることです。イエスさまは「わたしと父とは一つである」と仰せになります。それは神であられる父と神であられるイエスさまの一体性であります。わたしたちは神でありませんから、そのようにはなれません。しかしイエスさまは父なる神さまと具体的に交わりをされました。それは祈りによって交わりました。一人静かなところに退いて祈るイエスさまの姿があります。人であられるイエスさまは祈りの中で神さまとの交わりを豊かになさいました。またイエスさまは安息日には会堂に行き、礼拝をささげられています。そこで開かれる聖書の御言葉を聞き、賛美をささげ、祈りをささげる礼拝を通して神さまとの豊かな交わりをもたれます。さらにイエスさまは十字架の死に至るまで、神の前に従順にへりくだり、従われました。様々な誘惑を経験し、戦いを経験していかれましたが、最後まで神さまに従われました。ご自身の使命に従われました。
またイエスさまのようになるというのは、きよくされるということです。イエスさまご自身、山で祈っていたときその衣が真っ白に輝きました。それはイエスさまご自身のきよさの現われです。それは神さまのものとされているきよさです。イエスさまは完全に神さまのものとなっておられます。もちろんそれはロボットのような感情のない悩みのないものではありません。あのゲツセマネの祈りにあるように、罪は犯されませんが試練を経験する、誘惑を経験する中で、神のものとされて従うお方です。また最後の晩餐のときの大祭司の祈りでは、「彼らを真理によって聖別してください。わたし自身を聖別します。彼らも真理によって聖別されたものとなるためです」と祈ってくださいました。イエスさまは、わたしは自分自身を聖別しますから、彼らを聖別してください。イエスさまのようにきよくしてくださいと祈ってくださいます。
内なる人の霊的な成熟の二つめは、イエスさまの内住です。6節《「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました》。わたしたちの内に輝いているのは、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光です。かつてモーセがシナイ山から降りて来たとき、神さまの臨在に触れてその顔が光っていました。人々がそれを恐れて、モーセは顔に覆いをかけました。しかしわたしたちは心の内に内住されるイエスさまの御顔に輝く神の栄光を覆ってしまうのではなくて明らかにしていくのです。7節《わたしたちはこのような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであってわたしたちから出たものでないことが明らかになるために》。わたしたちの内に、土の器かもしれませんが、その内にイエスさまという宝を納めている。イエスさまが内住してくださって、わたしの内に命が、生物学的な命ではなくて、身体的な命ではなく、神さまの与えたもう命、聖書では永遠の命に漲っている。
イエスさまが内住してくださるゆえに、14節《主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています》。永遠の命は、復活の命です。

わたしたちの「内なる人」は、日々新たにされています。「どのように」でありましょうか。わたしたちの内なる人は、日々イエスさまに似た者とさせていただいて、神さまのものとしていただいて、きよきものとしてくださいます。日々、イエスさまが内住してくださり、永遠の命、復活の命が満ち溢れています。だから、わたしたちは落胆しません。外なる人の衰え、それは現実です。しかし内なる人の成熟、しかも霊的な成熟もまた現実です。わたしの内にイエスさまが住んでくださり、わたしをきよくしてくださり、イエスさまに似た者としてくださり、イエスさまと共に復活の命に満ち溢れさせてくださいます。外なる人の衰えは見えます。しかし内なる人の成熟、特に霊的な成熟、信仰の成熟というのは目に見えません。わたしの内にイエスさまが住んでくださっています。しかしそれは目に見えません。イエスさまがわたしをきよくしてくださっています。しかしそれは目に見えません。わたしの内に永遠の命が、復活の命が漲っています。しかしそれは目には見えません。18節《わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです》。イエスさまはかつて来てくださり、十字架に死んでくださり、復活してくださいました。それは歴史としては過ぎ去ったことです。しかし重大なことは、十字架で死なれただけでなくて、復活されたということです。十字架で死なれただけであれば、わたしたちは過ぎ去りゆく見えるものに目を注ぐことになります。そうであればイエスさまは内住されませんし、永遠の命、復活の命などは漲ることはありません。しかしイエスさまは復活してくださいました。過ぎ去ることがない永遠のお方となってくださいました。たんなる過去の思い出の人物ではなく、永遠の今を生きたもう復活の主となってくださいました。それゆえにわたしたちは永遠に存続する見えないものに目を注ぎます。何に目を注いでいるのか。誰に目を注いでいるのか。それはわたしの内なる人を変える力があります。日々新しくさせる力があります。だから、わたしたちは落胆しません。十字架に死なれ、復活されたイエスさまに目を注いでいくとき、外なる人は衰えても、あなたの内なる人は日々新たにされていきます。

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