日本キリスト教団 赤羽教会

日本キリスト教団 赤羽教会

<< 前週「」 | 「聖霊が与える保証」 | 次週「」 >>

[礼拝説教]聖霊が与える保証

大友英樹牧師
2018年5月21日
Ⅱコリント 5:5-10   

ペンテコステはイエスさまが十字架に死なれ、3日目に復活されてから50日目、イエスさまの約束された聖霊が注がれて教会が誕生したときです。そのときの様子を記している使徒言行録2章には、約束の聖霊を待ち望んでいた弟子たちをはじめ120名ほどの人々が祈っているところに、突然、炎のような舌が一人一人の上に留まったとあります。それ以来、教会には聖霊が注がれ続けています。聖霊が注がれているゆえに、わたしたちは今日も礼拝へと招かれています。聖霊が注がれているゆえに、わたしたちは今日も祈りをささげます。聖霊が注がれているゆえに、わたしたちは今日も「イエスは主である」との信仰を告白します。その他にも、聖書には聖霊の働きというものが多様であることが語れています。今日はその多様な聖霊の働きの中の一つのことを注目したいと願っています。
この5章は地上の幕屋と天の永遠の住みかと対比が語られています。地上の幕屋というのは、わたしたちの地上の体、地上の命をあらわします。幕屋というのは一時の住みかです。幕屋を畳んでは移動し、そこで幕屋を建て、また畳んで移動していく。そのような地上の人生をあらわします。その地上の人生を終えるとき、天の住みかに移されることになります。イエスさまの十字架と復活を信じる者に、神さまが与えてくださる永遠の命であります。それを天にある永遠の住みかと呼びます。地上の生涯は死で終わります。聖書は死というのは罪の支払う報酬である。罪の裁きである。罪が死をもたらすと告げます。イエスさまはその罪の身代わりに十字架に死なれ、3日目に復活されて、罪を赦し、罪が支払う報酬である死に勝利してくださいました。イエスさまの十字架と復活は、わたしたちの死を罪の裁きの死ではなく、永遠の命の入口としてくださったのです。この5章はわたしたちが死を迎えるときに、地上の幕屋が滅びるときに、天にある永遠の住みかに住むことになると語ります。地上から天の御国へ移される。そこは主の祈りで祈るように、神の御心が充満しているところです。地上では様々なことが起こって、神の御心が見えないようになってしまうことのみ多いことですが、天の御国にあっては神の御心のみが充満しています。わたしたちの生涯はこの地上の幕屋が死んで滅びるとき、天にある永遠の住みかに移さされていく。聖書はそのような死生観をもっています。聖霊はそのような死生観に保証を与えます。5節。
聖霊は保証である。聖霊の働きは保証することにある。あなたには地上の生涯だけで終わるのではありません。死にたる後に天にある永遠の住みか、天の御国に住む者になります。そこは神の御心が充満しており、イエスさまの十字架の血潮でその衣を白くしていただいた聖徒たちが、永遠に神を賛美し礼拝をささげている。礼拝はこの地上にあっても、最高の人間の営みでありますが、天の御国にあってはその最高の営みだけが満ちています。聖霊は「わたしはこの地上から天の御国に移されるのだ」という保証を与えてくれます。
保証という言葉、アラボーンという言葉ですが、これは新約聖書では3回しか登場してきません。Ⅱコリント1:22には《神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に霊を与えてくださいました》とあります。そしてエフェソ1:14《この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです》とあります。そしてⅡコリント5:5です。この3つの箇所いずれも、保証ということが聖霊と結びついています。聖霊は保証を与えます。しかもその保証は、このⅡコリント5:5とエフェソ1:14にあっては、天の御国への保証です。わたしたちを地上と天の御国へとつないでいく保証です。
この保証というアラボーン、これは商売の手続きで用いられるもので手付金という意味があります。ある商品を購入するというときに、一定の支払いをしてその購入を約束することです。その手付金が支払われたことで売買をする双方に契約が成立するように、聖霊はこの地上にあって、まだ地上の住みかである幕屋にあるわたしたちに、「確かにあなたには天にある永遠の住みか備えられています。もう手付金が支払われています。もうそれはあなたに約束されています」という保証を与えてくださいます。人間の与えるアラボーン、保証というのは、時にぐらつくことがあります。しかしこのアラボーン、保証は確かなものです。神が与えてくださっているからです。

この聖霊が与える保証は、なにをもたらしてくれるでしょうか。今日の聖書には繰り返されている言葉で言えば「心強い」ということです。6~8節。「心強い」、これは「確信する」、「安心する」と訳している聖書もあります。目に見える所では、天の御国は見えません。天にある永遠の住みかはわかりません。ただこの地上の住みかである幕屋、この地上の歩みをしているわたししか見えません。天の御国は遠く離れているように思えます。しかし聖霊の保証をいただいて、目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるのですから、わたしは心強いのです。イエスさまを信じるわたしには天の御国に永遠の住みかが備えられていると確信しているのです。イエスさまがわたしのために十字架に死んでくださり、復活してくださって、わたしのために地上の生涯を終えても行くべきところが備えられているのですから安心しているのです。聖霊はそのような確信と安心を与えてくれます。それは地上の生涯を終えてからだけではありません。今、地上の住みかであるこの幕屋にある生涯もまた心強い。聖霊はわたしの生涯に確信を与えます。イエスさまを信じて歩んでよいのだという安心を与えます。様々なことを経験する人生の中で、こうした確信、安心が与えられることは幸いです。
さらにまたそのような聖霊の保証、その確信や安心は、わたしたちに筋の通った生き方をもたらします。もうすでに自分には将来が保証されているから何をしても大丈夫だということではありません。わたしにそのような素晴らしい保証を与えてくださり、確信と安心を与えてくださったお方のために、その素晴らしい救いを与えてくださったお方のために、そのお方がほめたたえられるためにどうしたらよいのでしょうか。9節。「ひたすら主に喜ばれるものでありたい」。これは熱望をあらわしています。「ひたすら」ただ一つのことを熱望しています。主に喜ばれる者でありたい。この地上の歩みにあっても、天の御国にあっても、わたしの願いは「ひたすら主に喜ばれるものでありたい」。それはやがてキリストの裁きの座の前に立つ時がやってくるからです。使徒信条にあるように、生ける者と死せる者とを裁くためにお出でになるイエスさまの前に立つときがやってきます。最近は企業などでも説明責任ということが重視されていますが、その究極はイエスさまの前に立つときです。そのときわたしたちには聖霊の保証がありますから確信をもって、安心してその前に立つことができます。しかしそのとき忠実な僕とのお言葉をいただきたい。「ひたすら主に喜ばれる者でありたい」。もちろん願っていても、失敗してしまったり、うまくいかなかったり、人に傷つけてしまったりということがあります。それでもなおイエスさまの十字架の血潮の前に立って、主に喜ばれる者、主に受け入れられる者でありたいと信実な筋の通った信仰の歩みをさせていただきたい。聖霊はそのように生きることができるように、保証を与えてくださいます。

日本基督教団 赤羽教会
〒115-0042 東京都北区志茂2-56-4 TEL03-3901-8939 FAX03-3901-8990
このページは、自称赤羽web委員会(略してAWA)により作られています。