日本キリスト教団 赤羽教会

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[礼拝説教]自分が持っているもので

大友英樹牧師
2018年8月14日
Ⅱコリント8:8~15

11節《だから、今それをやり遂げなさい。進んで実行しようと思ったとおりに、自分が持っているものでやり遂げることです》。パウロは信仰の母なる教会であるエルサレムの貧しい聖徒を助けるために、献金運動を行っていました。パウロが今滞在しているマケドニア州の教会でも、その献金運動が行われていました。コリントから帰ってきたテトスは、パウロにコリント教会でも献金運動が始まっていると伝えました。パウロはあらためてコリントにテトスを派遣して、この献金運動を成し遂げるようにと勧めます。そのときパウロはその献金のことを「慈善の業」と言いました。それは「恵み」ということです。献金は恵みである。それゆえにその恵みに豊かな者となりなさいと勧めて、今日の聖書箇所となります。

今日の聖書箇所では、その恵みというものを、さらに深めていきます。9節《あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです》。献金は恵みでありますが、その恵みの大本は何かということです。教会に連なるあなたがたクリスチャンは、恵みの大本と言えば、《わたしたちの主イエス・キリストの恵み》であることを知っています。恵みと聞いて、まず第1に思い起こすことは、イエスさまの恵みです。イエスさまがくださった恵みです。イエスさまという恵みです。

このイエスさまの恵みについて、《主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです》とあります。これは何をあらわしているかと言いますと、2つの可能性があります。一つはイエスの受肉ということです。神であられるお方が人となられる。神が人間となられるということです。「主は豊かであった」というのは、経済的な貧富のことをあわしているのではなくて、神であること、神はすべてを満たしているということで豊かであるということです。そのお方が貧しくなられる。神の豊かさを捨てられて人間となられる。フィリピ2章に「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分となり、人間と同じ者となられました」とあるキリスト賛歌のように、自分を無にして、貧しくされて、神が人となられる。このイエスさまの受肉であります。

もう一つがイエスさまの十字架です。神であるお方が貧しくなるということは、まず人となられるという受肉にあらわれることは確かです。神の豊かさをすべて無にして、すべてささげて、何もない貧しい人間となられるわけです。しかしそれだけで目的が達せられるわけではありません。その目的は《あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです》と語られています。それはあなたがたが豊かになるためだったというわけですから、イエスさまが受肉されて、人となってくださっただけで目的が達せられるということにはなりません。イエスさまは十字架の死に至るまで従順に、貧しくられたのです。イエスさまの十字架の死は、神の豊かさをささげて人となられた貧しさの極みです。しかしその十字架が「あなたがたのために貧しくなられた」ということであり、そしてその十字架が、そして復活が、罪の赦しをもたらす豊かな救いとなっています。このイエスさまの恵みをあなたがたは知っています。

このイエスさまの恵みを知らずして、献金をささげることはできません。御賽銭はささげることはできるかもしれませんが、聖書にある神さまがわたしを試してみよと言われる十分の1献金というものは、イエスさまの恵みを知っているからこそ、必ず天の窓を開いて祝福するとの神の恵みを知っているからこそ、ささげることができるのであります。まず何といっても、イエスさまの恵み、人となられ、わたしの罪の代わりに十字架に死なれる恵み、罪赦され、新しく生まれ変わらせていただいて、神の子としていただいた恵み、そのイエスさまの恵みにお応えするのが献金となってあらわされることになります。

 

さて、10節からはパウロの献金についての意見が述べられています。《この件についてわたしの意見を述べておきます。それがあなたがたの益になるからです。あなたがたは、このことを去年から他に先がけて実行したばかりでなく、実行したいと願ってもいました。 だから、今それをやり遂げなさい。進んで実行しようと思ったとおりに、自分が持っているものでやり遂げることです》。ここには2回「やり遂げる」ということが出てきます。しかしそれは何が何でも、無いものを搾り取ってでもやり遂げなさいというのではありません。「自分の持っているものでやり遂げなさい」ということです。献金の重要なことは、自分の持っているものをささげることです。《進んで実行しようと思ったとおりに、自分がもっているものでやり遂げることです》。

イエスさまはまさに「自分がもっているものをささげるように」と教えてくださいました。イエスさまは神殿の賽銭箱に献金をする様子を御覧になっていました。一人の貧しいやもめがレプトン銅貨2枚、100円ぐらいになるでしょうか、それを献金しました。「この貧しいやもめが誰よりもたくさん入れた。その自分の持っている物をすべて、生活費すべてを入れたからだ」とはイエスさまの言葉です。金額の大小ではなく、自分の持っているものをささげているか。献金が献身となっているかと問われる思いがいたします。

先月の『信徒の友』7月号には、福音書に出てくる「パンと魚の奇跡」「五千人の給食」の箇所が取り上げられていました。福音書も取捨選択がありますから、イエスさまの出来事でもすべての福音書にあるわけではありません。しかしこの「パンと魚の奇跡」はいずれの福音書にもあるもので、それだけ印象深かったのでありましょう。イエスさまは多くの群衆を前にして、弟子たちに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われました。弟子たちは途方に暮れて、「ここにはパン5つと魚2匹しかありません」と答えるしかありません。しかしヨハネ福音書には、このパンと魚は少年が持ってきたとあります。しかし弟子のアンデレが、「これでは何の役にも立たない」と言ってしまいます。『信徒の友』には次のように書いてありました。

「アンデレに役に立たないとバッサリ評されながらも、恐らくは持てるものすべてを差し出した少年の行動。後代のキリスト者たちは、この小さき者の決意に、信仰者として踏み出すべき無限に大きな一歩を見て取りました。自分がどれだけのものを持っているかというメンツなど捨ててしまいましょう。大切なことは、持っているものをすべて、主なる神にささげられるかどうかです」。

わたしたちはささげる献金は、自分の持っているものをささげること、献身です。イエスさまの恵みにお応えする、イエスさまの十字架への献身にお応えするが献身であり、そのあらわれが献金です。イエスさまの恵みを賛美しながら、「これはわたし自身です」と自分の持っているものをささげるときに、それがレプトン銅貨2枚であっても、5つのパンと2匹の魚であっても、それが本物の献金となるのです。

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