日本キリスト教団 赤羽教会

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[礼拝説教]三度目の正直

大友英樹牧師
2019年2月4日
コリントの信徒への手紙Ⅱ13:1~13

《わたしがあなたがたのところに行くのは、これで三度目です》。最初にコリントで伝道した使徒言行録18章にある第1回目の訪問、1年6か月のコリントでの伝道を終えて、エーゲ海を挟んだ対岸にあるエフェソで伝道しているとき、2通の手紙を書きましたがコリント教会の課題が解決しないために直接コリントに行った第2回目の訪問、しかしその第2回目の訪問も思うような成果を挙げることができず、パウロは涙の手紙と呼ばれる少々厳しい内容の手紙を書き送ります。使者として送られたテトスから、その手紙を受け取った人々が、神の御心に適った悲しみをもって悔い改めたことを聞き、大きな喜びを得て、今この手紙を送り、三度目の訪問をしようと計画を立てています。この3回目の訪問は、パウロにとっては三度目の正直でありました。訪問が三度目であるというだけではありません。これまで3通の手紙を書いてようやくその課題が解決し、今度は喜びの内に訪問することになるからです。しかし喜びの内にも、パウロには固い決意がありました。2節の終わりに《今度そちらに行ったら、容赦しません》。それはパウロの使徒性ということです。キリストがパウロを通して語っていると信じることができない、受け入れることができない、その証拠を求める人々がいるからです。三度目の訪問では容赦をしないというのは、キリストによって召された使徒としてはっきりと指導するというパウロの決意の現われということができます。

今日の聖書箇所は、その三度目の訪問を前にして、自分自身を、そしてコリントの教会を見つめ直すように、整えていくようにと勧めています。いくつもの勧めがありますが、今日は3つことに心を向けたいと思います。まず第1は自分の信仰を吟味しなさい。5節《信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが》。自分の信仰を吟味する。テストする。確かめるということです。「信仰を持って生きているかどうか」とありますが、これは信仰の中に生きているかどうかということです。英語の聖書では、「信仰の中に生きているかどうか」というように、現在形または現在進行形という形で訳されています。かつて信仰の中に生きていたかどうかではない。今、信仰の中に生きているかどうか。これまでも信仰の中に生きていたということは大事ですが、今、どのように信仰の中に生きているのか。

誤解してはいけません。「信仰を持って生きているかどうかを吟味しなさい」というのは、かつては元気で生き生きとして、あれもこれもと奉仕にいそしむことができたけれども、しかし今は思うように動けなくなって、あれもできなくなった、これもできなったということではありません。「信仰を持って生きる」というのは、何かを行っているか、働いているか、動いているか、そういうことではありません。そうではなくて、どういう状態にあるか、若い頃のようには弱くなってきますから、何かを行うということは難しくなります。「信仰を持って生きている」というのは、どういう状態にあるのか。どういう姿なのかということが重大です。自分の信仰がどうであるのか、どういう状態にあり、どういう姿なのかを吟味する。わたしはどういう者なのかを吟味しなさい。《あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが》。

キリスト教信仰はイエスさまの十字架と復活を信じて、神さまがわたしの罪を赦してくださって、神の子にしてくださって、永遠の命に生きる者となることです。それはわたしの内にイエスさまが住んでくださることです。ですから信仰を持って生きているかどうか、自分を吟味するのは、今もわたしの内にイエスさまが住んでくださっているかどうかです。今、わたしの内にイエスさまがおられると信じるかどうかです。しかもわたしの内にと言いましても、心の真ん中に、心の王座にイエスさまが座ってくださっているかどうかです。もしイエスさまが心の片隅におられるとすれば、とりあえずは心の内におられるのだからとせずに、わたしはその王座から降りて、イエスさまをわたしの心の王座にお迎えする。そういう信仰かどうか、自分を吟味しなさい。

 

第2は完全な者となりなさい。9節《わたしたちは自分が弱くても、あなたがたが強ければ喜びます。あなたがたが完全な者になることをも、わたしたちは祈っています》、11節《終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます》。この9節と11節に「完全な者となりなさい」とあります。教会が属しますホーリネスの群では、ジョン・ウェスレーの強調したキリスト者の完全という聖化の恵みを大切にしています。キリスト者の完全とはイエスさまが律法の中で最も大切と教えられた神を愛することであり、自分のように隣人を愛することであります。ウェスレーは聖書の中に完全という言葉が用いられているので、キリスト者の完全ということを教えました。しかし聖書に登場する完全という言葉がすべてウェスレーの強調したキリスト者の完全を教えているというわけではありません。この箇所の「完全なものとなりなさい」というのも、そうした種類のものです。

これは「回復する」、「あるべき姿に正す」という意味があります。パウロが祈るのは、コリントの教会の人々が「完全な者となること」、「あるべき姿に回復されること」です。しかも11節の《完全な者になりなさい》というのは、自分でそのように努めなさいということではありません。「完全な者となりなさい」とありますが、それは自分でなるのではなくて、「完全な者となさせていただきなさい」、「回復されなさい」、「あるべき姿に正されなさい」とう神さまによってそのようにしていただきなさいということです。パウロの願いは回復にあります。5章のところで、神と和解していただきなさいとありましたが、神さまとの和解、それが罪の赦しということです。罪赦されてはじめてあるべき姿に回復します。神さまとの回復が救いです。その神さまとの回復がまことに確立して、さらに「励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい」とあるように、教会の交わりの回復です。神さまとの和解の関係が、教会の兄弟姉妹と交わりの回復が、完全な者、ふさわしい姿であります。

 

最後に3つめは神さまの祝福です。13節《主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように》。この御言葉は礼拝での祝祷に用いられています。キリストの恵み、それは心の内に住んでくださる恵み、神の愛、それは神との回復をもたらしてくださいます。そして聖霊の交わり、聖霊が神と主ある兄弟姉妹との愛の交わりをもたらしてくださいます。父・御子・聖霊の三位一体の神による祝福があるようにとの祈りです。

聖書の神さまは交わりの神さまです。ご自身の内に父・御子・聖霊の愛の交わりがあり、この交わりへとわたしたちを招いてくださいます。私たち人間は、この神さまとの愛の交わりに回復することが求められています。そしてキリスト者とはこの回復を与えられた者であります。わたしたちクリスチャンは、イエスさまが復活された日曜日を主の日として、再びイエスさまがお出でになる再臨のときまで、礼拝をささげる神の民とされました。その神の民に神さまは祝福をもって臨んでくださいます。毎週の礼拝においてこの御言葉をもって祝祷がなされます。それは神さまの祝福、キリストの恵みと父なる神の愛と聖霊の交わりの祝福です。祝祷と祝福の祈りとありますが、礼拝での祝祷は祈りではありません。昔は教会の礼拝ではラテン語が用いられていました、この祝祷とある部分は、ベネディクティオと言いまして、祝福ということです。ですから礼拝の祝祷は、神さまの祝福がありますようにという祈りではなくて、神さまの祝福の宣言です。キリストの恵みと神の愛と聖霊の交わりがあなたがたと共にあるように、それは願いではなく、宣言です。神さまの祝福に押し出されて、神さまの祝福と共に出発する。遣わされる。毎週の礼拝からしっかりと神さまの祝福をいただいて、祝福を携えて、祝福と共に歩んでいくように、ここではパウロの祈りでありますが、この祈りは現実なのです。祝福の現実です。今日のこの祝福のもとに遣われていきます。

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