日本キリスト教団 赤羽教会

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[礼拝説教]最も重要な日

大友英樹牧師
2019年4月7日
レビ記16:11~19

イスラエルの民にとって、1年で最も重要な日、それが贖罪日であります。それは聖書のカレンダーでは第7の月の10日、わたしたちのカレンダーでは10月ぐらいになります。レビ記16:31には、この日は《最も厳かな安息日》とあります。これまでレビ記によって、礼拝について取り上げてきました。礼拝は神さまに自分をささげる焼き尽くす献げ物、神さまと兄弟姉妹との交わりをあらわす和解の献げ物、そして罪の赦しをもたらす贖いの献げ物という献げ物がささげられる。そして祭司が立てられて、その献げ物が具体的にささげられて、最後に祭司が祝福の手を挙げて神さまの祝福、臨在を告げて遣わされていきます。献身と交わりと贖罪と祝福、これがわたしたちがささげる礼拝です。その中でも贖罪が決定的です。どんなに神さまに献身しても、どんなに神さまと兄弟姉妹との交わりがあっても、どんなに神さまの祝福をいただいても、贖罪、罪の赦しがなければ、本当の献身、本当の交わり、本当の祝福にはなりません。罪赦されたから献身します。罪赦されたから交わりがある。罪赦されたから祝福がもたらされる。

聖書の信仰、聖書の礼拝は、この罪の赦し、贖罪に焦点があります。しかもこの年に一度の贖罪日が重要なのです。年に一度の献身の日も、交わりの日もありません。しかし贖罪、罪の赦しというものには、年に一度の贖罪日があります。なぜでしょうか。献身も交わりも、もちろん神さまからの恵みをいただいて自分をささげ、交わりをすることができるわけですが、それは自分でできることです。わたしは自分をささげます。わたしは神さま親しく交わりますと自分でささげることができます。しかし贖罪というのは、わたしが贖いの献げ物をささげたところで、自動的に罪が赦されるというものではありません。神さまがあなたの罪を赦そうと仰せにならないと贖罪はありません。献身や交わりがわたしたちの方に比重があるとすれば、贖罪は神さまの方に比重があります。神さまの御業です。

レビ記16章は、年に一度この贖罪、罪の赦しは、幕屋の一番奥、垂れ幕の奥の至聖所で、そこにある契約の箱の上の贖いの座、そこで与えられる。そこに罪の赦し、贖罪の源流があると語ります。なぜならそこに神さまが臨在してくださり、あなたの罪を赦してくださるからです。レビ16:2《主はモーセに言われた。あなたの兄アロンに告げなさい。決められた時以外に、垂れ幕の奥の至聖所に入り、契約の箱の上にある贖いの座に近づいて、死を招かないように。わたしは贖いの座の上に、雲のうちに現れるからである》。

この年に一度の贖罪日、祭司が至聖所の中に入って贖罪の献げ物をささげます。この贖罪によって、普段の礼拝では幕屋の外にある祭壇に贖いの献げ物がささげられて、そこで罪の赦しをいただくことができる。この年に一度の贖罪日があるゆえに、普段の罪の赦しがあります。この年に一度の最も重要な日、贖罪日について、新約聖書の光から、特にヘブライ人への手紙がこの箇所を取りあげていますから、その光によって三つのことを学んでみたいと思います。

 

まず第1に贖罪には仲保者が求められます。3節《アロンが至聖所に入るときは次のようにしなさい。まず、贖罪の献げ物として若い雄牛一頭、焼き尽くす献げ物として雄羊一匹を用意する。彼は聖別した亜麻布の長い服を着け、その下に亜麻布のズボンをはいて肌を隠し、亜麻布の飾り帯を締め、頭に亜麻布のターバンを巻く。これらは聖なる衣服であり、彼は水で体を洗ってこれを着る》。至聖所に入ることができるのは、祭司の中でも大祭司アロンだけでした。その至聖所には、十戒が刻まれた石の板が入っている契約の箱があります。縦120㎝、横70㎝、高さ70㎝、純金で内側も外側も覆われていました。その蓋は純金で、贖いの座と呼ばれます。その上には一対のケルビムいう神さまの臨在の象徴が翼を広げて契約の箱を覆っています。そこに大祭司アロンだけが入っていきます。

アロンはまず自分と一族のための贖罪の献げ物をささげます。11節《アロンは自分の贖罪の献げ物のための雄牛を引いて来て、自分と一族のために贖いの儀式を行うため、自分の贖罪の献げ物の雄牛を屠る》。その献げ物の血を至聖所の奥に携えていって、契約の箱、その上にある贖いの座に振りまきます。次にイスラエルの民全体のための贖罪の献げ物をささげます。15節《次に、民の贖罪の献げ物のための雄山羊を屠り、その血を垂れ幕の奥に携え、さきの雄牛の血の場合と同じように、贖いの座の上と、前方に振りまく》。

この間、民は皆、幕屋に入ることはできず、幕屋の外で目に見えないアロンを思いながら、そして神さまにアロンがささげる贖罪の献げ物を思いながら祈っています。17節《彼が至聖所に入り贖いの儀式を行って、出て来るまでは、だれも臨在の幕屋に入ってはならない》。

ヘブライ人への手紙9章には、このレビ記16章の贖罪日について7節に《 しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます》とその様子を語っています。そしてイエスさまが新しい契約の仲保者であること力強く宣言します。11節からお読みします。《けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、 雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。 なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、 まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。 こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです》。

 

第2に贖罪は罪の追放であります。レビ記16:22《雄山羊は彼らのすべての罪責を背負って無人の地に行く。雄山羊は荒れ野に追いやられる》。アロンが年に一度の贖罪日に至聖所に入って行くとき、二匹の雄山羊を引いて行きました。くじを引いて、一方を贖罪の献げ物とします。そして他方をアザゼルのものとします。アザゼルというのは、はっきりしないところがありますが、荒野にいると考えられている悪魔のことではないかと考えられています。英語の聖書ではスケープゴート、身代わりとも訳されています。アロンは幕屋の奥の至聖所に一人入って行って贖いの献げ物をささげます。そして至聖所から出てくると、アザゼルのための雄山羊の頭に両手を置きます。21節《アロンはこの生きている雄山羊の頭に両手を置いて、イスラエルの人々のすべての罪責と背きと罪とを告白し、これらすべてを雄山羊の頭に移し、人に引かせて荒れ野の奥へ追いやる》。贖罪の献げ物と同じように、その頭に手を置いて罪責と背きと罪を告白して、それらをアザゼルの雄山羊に移します。そして《雄山羊は彼らのすべての罪責を背負って無人の地に行く。雄山羊は荒れ野に追いやられる》。アザゼルの雄山羊は、罪責を背負って荒野の無人の地に追いやられる。罪を悪魔のもとに追放する。わたしから離れされというように、罪を追い出してしまう。アザゼルの雄山羊に罪責を背負ってもらう。そして荒野のはるか彼方に自分の罪を追い出してもらう。罪責を背負って、追放される。

イザヤ書53章にもメシア預言にも《彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだと。彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わされた》とありますが、ヘブライ9:28にはそれはイエスさまであって《キリストも多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現われてくださるのです》とあります。イエスさまは多くの人の罪を負ってくださるために十字架にかかられました。イエスさがわたしの罪を負って荒野の無人の地に追いやられるように、わたしの身代わりに罪の裁きを受けてくださり、それによってわたしの罪は追放されました。

 

最後に第3に贖罪は完全なものです。レビ記16:31《これはあなたたちにとって最も厳かな安息日である》。この贖罪日は通常の安息日、イスラエルの民にとっては土曜日になりますが、その安息日とは異なっている「最も厳かな安息日」と呼ばれます。第7の月の10日なので、年によってその曜日が異なります。土曜日の安息日ということにはなりません。しかしこの贖罪日は最も厳かな安息日である。それはこの贖罪日が、大祭司が至聖所に入って犠牲をささげ、アザゼルの雄山羊に罪を背負わせて荒野に追放して、わたしに罪の赦しがもたらされる日であるからです。「最も厳かな安息日」というのは、「安息日の中の安息日」ということです。「完全な休みの安息日」と訳している英語の聖書もあります。この贖罪日の贖罪は、その時には完全なものだからです。

しかし大祭司が仲保者であり、アザゼルの雄山羊がどんなに罪科を背負って追放されたとしても、毎年第7の月の10日の贖罪日は繰り返されます。「安息日の中の安息日」、「完全な休みの安息日」ですが、どうしてもこれで完全となったとはなりません。毎年繰り返されなければなりません。1年しかその贖罪の効力がもたない。1年しか罪の赦しが続かない。毎年毎年、その時は完全な贖罪がなされます。しかし繰り返されなければなりません。

しかしイエスさまは完全な贖罪をしてくださいました。ヘブライ10:1~4《律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。 もしできたとするなら、礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、いけにえを献げることは中止されたはずではありませんか。 ところが実際は、これらのいけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来るのです。 雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです》。それに対して、ヘブライ人への手紙には繰り返し、イエスさまはただ一度十字架に死なれて、完全な贖いをなしてくださったと宣言します。9:12《雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです》。ヘブライ人への手紙では、イエスさまの十字架が「ただ一度」というのが5回、「唯一の」が2回強調されます。イエスさまの十字架、贖罪が、ただ一度の完全なものであって、繰り返される必要がない。1年しか効力がもたないようなものではなくて、完全な贖罪、それがイエスさまの十字架です。死に勝利して、3日目に復活してくださったイエスさまの十字架は完全な贖罪をわたしにもたらしてくださいます。

 

あなたのためにイエスさまが仲保者となってくださいました。あなたのためにイエスさまが罪の身代わりに罪を背負って追放してくださいました。あなたのためにイエスさまがただ一度十字架に死んでくださり、復活してくださって完全な贖罪を与えてくださいました。

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