日本キリスト教団 赤羽教会

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[礼拝説教]わたしは主である

大友英樹牧師
2019年4月13日
レビ記18:1~5     

レビ記16章までの礼拝の規定から、17章以降は神聖法集と旧約学者が呼んでいる箇所になります。礼拝をささげる一人一人が、神が聖なるお方であるから、聖なる者であるようにという勧告が語られます。それは18章ではいとうべき性関係、19章では生活の様々な面で聖なることが求められ、20章では死刑について語る中で聖なる者であるようにと語られていきます。今日読みました箇所は、その聖なる者であるようにとの勧告の序文にあたるところです。ここに3回繰り返し語られているのは、「わたしは主である」、聖書の言葉ではアニー・アドナイという「わたし・アニー」というのが強調されています。神さまが「わたしは」というように御自身を現してくださいます。わたしたちが礼拝をささげる神さまは、「わたしは」と御自身を現されるお方、人格的に語りかけられるお方です。何となく霊験あらたかに存在しているというのではありません。神秘的な捕えがたい霊的なお方ではありません。はっきりと「わたしは」と語りかけられるお方です。

神の民に求められることは、神さまが御自身を現されて、「わたしは主である」と仰せになることを認めることです。これ以降に語られることになります様々な勧告、聖なる者であるようにとの勧告は、「わたしは主である」と仰せになる神さまを認めることからはじまります。神さまが主である。主権者である。支配者である。王である。わたしは主ではない。わたしは主権者でも、支配者でも、王でもない。神さまが主であり、わたしは従う者であるという神さまとわたしの関係です。またここでは「わたしはあなたたちの神、主である」と呼びかけられていますから、神さまとわたしたちの関係です。「わたしは主である」という神さまとわたし、神さまとわたしたちの縦の関係が結ばれること、「わたしは主である」で仰せになるお方を、「あなたは主である」と賛美告白することが求められます。

神さまが「わたしは主である」と御自身を現されたのは、モーセが最初でした。聖書に最初に神さまが御自分の名が主であると現したには、出エジプト記6章でした。エジプトの地にあるイスラエルの民を救い出すために、シナイ山の麓でモーセが召し出されました。そのとき神さまは「わたしはあるという者だ」と御自身を現しました。口語訳聖書では「わたしは有ってある者だ」、新しい聖書協会共同訳では「わたしはいるという者だ」と訳しています。神さまは存在そのもの、いつでもおられる、永遠にいてくださるお方です。その神さまが出エジプト記6章でモーセにあらためてご自身の名を告げられました。「わたしは主である。わたしはアブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現われたが、主というわたしの名を知らせなかった。…わたしは主である」。わたしたちの神さまは、「わたしはある」と存在しているお方であるだけではなくて、「わたしはあなたの主である」と、わたしたち一人一人と契約を結ぼうと願われます。神さまは「わたしはあなたの主である」、わたしたちは「あなたはわたしの主である」、そのような交わり、契約が結ばれます。

今、わたしたちの国は元号が変わろうとしています。マスコミも元号関連の話題を連日のように取り上げています。元号というのは天皇の即位によって、その時代、その時間、その空間を支配するものでもあります。1979年に元号法が制定されて、天皇代替わりには元号が変わることになりました。それで平成となり、来月からは令和となるわけです。キリスト教会では元号法が制定されて以降、元号を使用せず、西暦、つまり主の年を使用することになりました。毎年7月に都知事宛てに宗教法人の報告を提出することが義務づけられていますが、多くの宗教法人は令和元年7月何日と書くわけですが、教会では2019年7月何日と書いて提出します。それは「わたしは主である」と仰せになるお方への信仰の告白でもあります。現在の状況の中で、「わたしは主である」との御言葉の前に厳粛に立って、この主を賛美告白することが決して小さなことではないことを心に刻みましょう。

 

さて、「わたしは主である」と仰せになるお方に従っていくために、何が求められているのでしょうか。二つのことが求められています。一つは風習に従ってはならない。3節に《あなたたちがかつて住んでいたエジプトの国の風習や、わたしがこれからあなたたちを連れて行くカナンの風習に従ってはならない。その掟に従って歩んではならない》。かつて住んでいたエジプトの風習、これから導かれるカナンの風習に従ってはならないとの警告です。おそらくこの後に語られているいとうべき性関係や19章の様々な禁止命令がありますが、こうしたことが風習としてあるということでありましょう。ですからこういった風習に従ってはならない、染まってはならない、関係をもってはならないという警告がなされるわけです。

もう少し霊的な意味でこのエジプトの風習、カナンの風習というものを解釈してみますと、「あなたたちがかつて住んでいたエジプトの国の風習」というのは、出エジプトの救いの前の生活ということになります。過越の小羊の血の贖いによって、とうとう頑なだったエジプト王もイスラエルの民を去らせました。400年のエジプトでの重労働から解放されますが、やがて葦の海を前にしたとき、後ろからエジプト軍が追いかけてくる。モーセが杖をあげると強い風が海を裂いて、向こう側へ渡ることができた。Ⅰコリント10章ではその葦の海を渡ったのは洗礼を受けたこと、神さまの救いの経験をしたことだと語っています。出エジプトの救いは、救いの神さまと出会う経験です。エジプトの風習とは、この救われる前の生活です。新約の光からすれば、イエスさまの十字架を信じて罪赦されて、わたしは新しく生まれ変わり、洗礼を受けて救われましたということは、救われる前のエジプトの風習、生活から解放されたということです。わたしたちは日本で生活し、洗礼を受けて救われました。日本から出ていくわけではありません。その中で生活しています。元号が変わろうとしている時代に生きています。しかし確かなことは救われる前のエジプトの風習から解放されています。

さらには「わたしがこれからあなたたちを連れて行くカナンの風習に従ってはならない」とありますが、これから向かって行くカナンの地に住む人々、聖書にはその地にはアモリ人、ヘト人、カナン人、ヒビ人、エブス人が住んでいる。彼らの神々にひれ伏してはならないと警告されています。代表的なのは多産と農業の偶像であるバアルの神が拝まれていました。これから向かって行くカナンの地は、無菌状態ではない。無風状態でもない。偶像なる神々の問題のみでなく、いとうべき性的な関係が横行しているところであり、多くの民が住んでいて文化風習を築いている地域です。そこにこれから入って行こうとするわけです。エジプトの風習が救われる前の生活とすれば、カナンの風習は救われた後の生活ということになります。クリスチャンとしての生活ということです。カナンの地は約束の地でありますが、決して無菌状態な、何も戦いがない、困難がないところではありません。そこには偶像礼拝があります。そこにはいとうべき性関係があります。そこには不正があります。その中で神の民は歩んでいきます。日本という風習の中でクリスチャンとして生きていくのは様々な戦いがあります。

先週のホーリネスの群の年会では、K先生が証しをしてくださいました。K先生は長く銀行にお勤めになった方です。仕事をして行く中で、クリスチャンとして許容できるだろうという範囲をだんだん広げていきました。仕事は順調に昇進しましたが香港時代に島先生に出会って信仰のスタンダードをもう一度築き直したそうです。外資系の銀行に誘われたとき、クリスチャンとしてできないことはしないという条件で行かれたそうです。そしてそのようにして、解雇を2回経験したそうです。K先生は60歳を前にして献身をされて、この度会堂建築に取り掛かるということでした。もちろん皆がK先生のようになることはできませんが、カナンの風習に従わないために、クリスチャンとしてのスタンダードを持つことは大切です。

 

そのスタンダード(基準)は何でしょうか。カナンの風習の中で、クリスチャンのスタンダードは何でしょうか。4~5節にそのスタンダードがあります。エジプトやカナンの風習ではなくて、《わたしの法を行い、わたしの掟を守り、それに従って歩みなさい。わたしはあなたたちの神、主である。 わたしの掟と法とを守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる。わたしは主である》。法と掟とありますが、端的にいえば、聖書の御言葉です。詩編119編に《どのようにして、若者は、歩む道を清めるべきでしょうか。あなたの御言葉どおりに道を保つことです》。それは若者だけのものではありません。さらには《あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯》、また《御言葉が開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与えます》ともあります。『信徒必携』のような教会生活入門で学ぶことも大切ですが、何よりも聖書を繰り返し読むことによって、「これが道だ、これに歩め」との神さまのみこころが与えられてまいります。信仰告白の中で、聖書は信仰と生活の誤りなき基準であると告白するのは、こういうことです。

2019年度の最初の聖日礼拝において、「わたしは主である」と仰せになる神さまの前に立って、「あなたはわたしの主です」と賛美告白をいたしましょう。そしてエジプトやカナンの風習の中で、それに従わず、そこから解放されて、聖書の御言葉を基準として、それを行い、それを守り、それ従っていきましょう。

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