日本キリスト教団 赤羽教会

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[礼拝説教]贖いの血潮

大友英樹牧師
2019年4月14日
レビ記17:1~12     

イエスさまが十字架への道を歩まれるために、エルサレムに入城された聖日を迎えました。人々がなつめやしの枝をもって迎えました。文語訳聖書では棕櫚の枝と訳されたことから、日本では棕櫚の聖日と呼ばれます。木曜日に最後の晩餐、金曜日に十字架につけられます。そして復活の聖日を迎えます。パウロがⅠコリント15章で最も大切なこととしてわたしが宣べ伝えことは、聖書に書いてあるようにイエスさまがわたしたちの罪のために十字架に死なれたこと、3日目に復活したことであると語りますが、今週はその最も重要なときを迎えようとしています。この受難週に入るにあたって、レビ記17章から聖書の信仰、キリスト教信仰の2つのポイントを学びたいと願っています。

 

まず第1は聖書の信仰は、臨在の幕屋の前で礼拝をささげる信仰です。5節《それゆえ、従来イスラエルの人々が野外で屠っていたいけにえは、主への献げ物として臨在の幕屋の入り口の祭司のもとに携えて行き、それを主への和解の献げ物とすべきである》。4節、5節、6節に繰り返し臨在の幕屋の入り口に犠牲を携えてくるように、それを和解の献げ物とするように、神さまとの交わりのささげものとするように、つまり神さまに礼拝をささげるようにと繰り返し語られています。

この箇所は幕屋を中心として、その周りに宿営しているイスラエルの民が、牛や羊、山羊を屠って食するということが背景にはあるようです。創世記9章には、ノアの洪水物語の後にノアの契約が語られています。神さまは虹を契約のしるしとするという箇所です。そこでこれからは動いている命あるものを食物としてもよろしい、ただしその肉は命である血を含んだまま食べてはならないと命じられていました。そういうことで宿営の内であれ、外であれ、牛や羊や山羊を屠って食することがあるわけですが、それはまた犠牲の献げ物でもありました。これまで学んでまいりましたように、焼き尽くす献げ物、和解の献げ物、贖罪の献げ物というように犠牲がささげられて、礼拝をささげることが求められていました。神さまを礼拝するということは、手ぶらでは礼拝ができなかったのです。自分自身をささげますと焼き尽くす献げ物が、神さまの交わりをいたしますと和解の献げ物が、そしてわたしの罪を赦してくださいと贖罪の献げ物が礼拝には不可欠でありました。ここで命じられていることは、イスラエルの民が、宿営の内でも外でも、その食物を屠るとき、それではこの牛を、この羊を、この山羊を神さまにおささげしよう、礼拝しようと言って、各々の所で礼拝をささげることがないようにという警告です。そうでなければ、あなたがたは殺害者と見なされる。流血の罪をおかしたのであるから、民の中から絶たれるというのです。自由に、思うように、思う所で礼拝をささげてはならないという警告です。礼拝をささげるところは、臨在の幕屋であります。民はその幕屋に中には入ることができませんから、臨在の幕屋の入り口、そこにある祭壇に献げ物がささげられる。その献げ物は食することと関わりがあるので、和解の献げ物ということになるのでありましょう。いずれにしても、大切なことは、礼拝をささげるところは、臨在の幕屋の前であるということです。各々の宿営の場所ではない。臨在の幕屋の前、神さまの臨在の前でこそ、礼拝をささげなさいということです。

それには理由がありました。それは礼拝は個人のこと、プライベートなことではないからです。各々がその宿営のところで屠ったものを、これを犠牲としてささげようとその場所でささげて礼拝することが個人的なプライベートなことです。しかしそれは礼拝ではありません。レビ記の礼拝を教えている箇所を読んでいますと、ここで命じられている礼拝の姿が、献身とか、交わりとか、罪の赦しというようなことで礼拝がささげられるということなので、それは一人一人が、個人的に、プライベートに礼拝をささげているように思うところがあります。確かにそういう個人的ことが決してないとは言えないと思います。しかしこのレビ記が教える礼拝、聖書が語るところの礼拝というのは、あの十戒の第4の教え、「安息日を心に留め、これを聖とせよ」が大前提にあります。23章で取り上げることになりますが、聖なる集会、礼拝を召集すべき主の祝日は、第1に7日目の安息日であるとあります。それゆえに礼拝をささげる日と場所が定められます。臨在の幕屋の前で礼拝をささげる。礼拝は公の礼拝です。それはすべての者に開かれている、すべての者が招かれている礼拝です。

日本の宗教環境には、公の礼拝というものはありません。神社でもお寺でも、安息日の礼拝があるわけではありません。自分の思う時に参拝することはあるでしょう。自分の家で仏壇を前に祈ることもあるでしょう。それはプライベートな礼拝です。そういう宗教環境の中で、クリスチャンであるわたしたちは安息日に公の礼拝をささげます。神さまの臨在の前で礼拝をささげます。個人的に聖書を読んでいるから、祈っているから、礼拝をささげているからというだけでは聖書の信仰ではありません。聖書の信仰は集まる信仰です、共に集まり、礼拝をささげる信仰です。公の礼拝があるから、個人で聖書をよみ、祈りという信仰生活があるわけです。

 

第2に、聖書の信仰は、贖いの血潮の信仰です。11節《生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである》。10節からの箇所には、屠った動物の血を食べてはならないとあります。ノアの契約のときの教えが繰り返されています。そしてなぜ血を食べてはならないのかという理由がここに語られています。

一つは血が生き物の命であるからです。わたしたちも食物をいただくときに、「命をいただいている」という言い方をするかと思います。食物に対する感謝や畏敬の念が込められていると言うことができるでありましょう。一般にそのように命をいただいているというわけですが、聖書はもっと厳密に命というのは血の中にあるといいます。血が命である。血が流されれば、命を失うことになりますから、そういう意味では確かに血の中に命がある。血が失われれば、命が失われる。血は命であります。

さらにもう一つの理由が、血が贖いをするからです。神さまはその血を祭壇の上に注ぐことを命じられました。神さまが血をお与えくださったのは、《祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである》と仰せになります。命の贖いのためであります。犠牲の血が流されることによって、あなたの命の贖いがなされるためです。

贖いの信仰、これは聖書の中心メッセージです。聖書は「あなたがたは贖われなくてはならない」と語ります。一人も漏れることなく、「あなたがたは贖われなければならない」と語ります。そのために神さまは「わたしは血をあなたたちに与えた」と語ります。なぜ命の贖いなのでしょうか。新約聖書ローマ6章に《罪の支払う報酬は死です》とあります。聖書はなぜ人間は死ぬことかと言えば、それが罪が支払う報酬であるからだと語ります。創世記の初めに、神に背を向けて、神から離れて罪に落ちた人間にもたらされたのは死であるとあります。創世記5章には死の系図が語られます。聖書は罪ゆえに人間は死ななければならないものとなったと語ります。命を失うものとなったと語ります。それゆえにその罪が人間にとって最大の課題、だれもが解決しなければならない人生の課題であります。そのために神さまが用意してくださったのが、血による贖いです。《わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである》。あなたたちの命の贖いのために、命を失ってしまう罪の贖いのために、わたしに代わって、わたしの身代わりに、犠牲の血が流され、その血が祭壇にささげられる。その贖いの血潮の信仰、これが聖書を貫く信仰です。

神さまがわたしたちに与えてくださった血、その中の命によって贖いをしてくださる血は、イエスさまの十字架の血潮です。イエスさまはあなたの罪の贖いのために、全人類の贖いのために、十字架にご自身をささげてくださいました。神の御子がただ一度、完全な犠牲をささげてくださいました。イエスさまの十字架の血潮が、神さまが与えてくださった、レビ記が指し示す贖いの血潮です。血はその中の命によって贖いをする。イエスさまの血の中にある命によって、永遠の命によって、神さまの命によって、わたしの罪は贖われた。そのように信じることが聖書の信仰です。

 

聖書の信仰に従って、安息日ごとに、聖なる神さまの臨在の前に集まって公の礼拝をささげましょう。礼拝をささげるたびごとに、十字架を見上げて神さまがわたしたちに与えてくださったイエスさまの十字架の血潮でわたしは贖われた、罪赦されたと賛美告白をささげましょう。

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