日本キリスト教団 赤羽教会

日本キリスト教団 赤羽教会

<< 前週「」 | 「耳を傾けよ」 | 次週「」 >>

[礼拝説教]耳を傾けよ

大友英樹牧師
2019年10月6日
ルカによる福音書16:19-31

イエスさまはルカ福音書15章~16章にかけて、集中的に金銭の使い方を譬えで語っています。その中には、「神と富とに仕えることはできない」という有名な言葉もあります。直接には、14節に《金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った》ことから、金持ちとラザロの譬えを語りはじめました。

ある金持ちがいた。名前はありませんが、金に執着するファリサイ派の人々に当てはまるといっていいでしょう。ファリサイ派というのは、ユダヤの民の中の一つのグループです。ユダヤの民には、サドカイ派というのとグループとファリサイ派というグループがありました。その違いは何かというと、サドカイ派の人々は上流階級ということで、今の地上の生活に満足しているところがありました。一方のファリサイ派というのは、庶民の部類にありまして、聖書にある律法を守ることに熱心でありまして、律法学者と呼ばれる聖書の専門家も多くはファリサイ派から出てきました。あまり地上の生活では報われないような生活を送っていましたから、天使が守ってくれる、死んで終わりではなくて天国がある、やがて救い主がお出でになったときには復活することができる、そのような希望を抱いていました。この金持ちとラザロのたとえ話には、ファリサイ派の人々の希望が描かれています。しかしそれは皮肉というか、希望していることとは違う逆転の譬えとなっています。

この金持ちは《いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊びくらしていた》と紹介されています。高級な衣服を身に着けて、毎日ぜいたくに遊び暮らせるほどに裕福でありました。一方のラザロは貧しく、この金持ちの門前に横たわっていて、《その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた》。イエスさまがティルスとシドン地方という外国に行かれたとき、その土地の女性がイエスさまに助けを求めたとき、この女性は「食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」と答えたことがありました。当時の食事の仕方は、横腹を下にして足を投げ出して横になる感じで食事をとりました。パン屑はその下に落としていくわけです。手を拭く物がありませんから、パン切れで手を拭いて、それを下に落としていました。残飯みたいなものです。そのパン屑は小犬も食べることができました。ラザロはそれで腹を満たしたいものだと思っていたというわけですが、実際はそうでなかったということでありましょう。ラザロは死にました。すると天使がやって来てラザロを宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行きます。そこは宴席であったとあります。それは天国のイメージです。ラザロは地上の生活では、金持ちが開いている宴会の食卓から落ちる物で腹を満たすことができなったけれども、天国で自分たちの信仰の父と呼ばれるアブラハムと一緒に宴席に座っています。一方金持ちも死にました。ラザロと違って、家族によって葬られました。天国にと思いきやそこは陰府の世界、苦悩の世界、裁きの世界でありました。そこは炎でもだえ苦しむ陰府の世界です。ファリサイ派になぞらえられる金持ちは天国の希望ではなくて、陰府の世界に落ちてしまう。そして天国を見上げると、そこにはアブラハムのすぐそばに、天国の宴席に座るラザロが見える。彼は大声をあげてアブラハムを呼びます。わたしを憐れんでください。ラザロを私のところに遣わして指先を水に浸してわたしの舌を冷やさせてくださり。炎の中でもだえ苦しんでいます。しかし天国の陰府の間には、超えることのできない深淵があって、ラザロを遣わすことがきません。おまえは地上では良いものをもらっていた。ラザロはそうではなかった。ラザロは天国では慰められ、おまえは陰府でもだえ苦しんでいる。逆転がおこったわけです。

そこで金持ちは別の願いを語ります。《わたしの父親の家にラザロを遣わしてください》。わたしのところが無理ならば、今地上で生きている家族のところにラザロを遣わしてください。わたしには5人の兄弟がいますから、彼らがこんな苦しい場所に来ることがないように警告してください。死んだはずのラザロが現われたら、兄弟はびっくりして、その語ることに耳を傾けるでしょう。死んだ者の中から誰かが行けば、兄弟は悔改めるでしょう。ですからラザロを遣わしてください。しかしアブラハムの答えは違いました。29節《お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい》、31節《もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう》。どんなに死者が生き返ってあらわれて警告しても、本当には聞くことはないだろう。ヨハネ福音書12章には同じくラザロという名前を持つ者が、墓に葬られて4日目に生き返ったときに、人々はラザロを見に来ましたが、一方ではそれで多くの者がイエスを信じるようになったのでラザロを殺してしまおうという陰謀もあったとあります。死者が生き返ったとしても、素直には聞こうとしない。そうした超自然的なことが起こったとしても、皆が天国に行かなければならないと悔い改めるわけではない。

そうではなくて、モーセと預言者に耳を傾けなさい。そのようにイエスさまはこの譬えで語ります。キリスト教信仰は輪廻のような死生観をもちません。前世があって現世があり、現世があって来世というような世界観はありません。聖書に「主を賛美さるために民は創造された」とあるように、神さまによってわたしたちはこの世界に創造されて、生きることをゆるされ、神さまをほめたたえるために生きる。ですから人生の主な目的は、神を知ることなのです。神を知らずして、この世界を生きることは空しいからです。そして地上の人生で終わるのではなくて、死の後には天国、神の国の人生がはじまる。ラザロがアブラハムのすぐそばで天国の宴席に座るように、天国の宴席に連なる者となる。こうした人生観、世界観、それはモーセと預言者に耳を傾けることからはじまります。モーセと預言者というのは、聖書のことです。聖書に耳を傾けなさい。あなたがたには聖書があるでしょう。ラザロが生き返ってみたところで人々はどうすることもできせん。ただ聖書に耳を傾けなさい。そこには金持ちの5人の兄弟たちが天国に迎えられ、天国の宴席に連なる秘密があるからです。なぜ教会はこんな昔の書物を大切にしているのでしょうか。感動する物語があるからでしょうか。とてもよい格言や教えがあるからでしょうか。それもありますが、何よりも聖書はわたしたちをイエス・キリストに出会わせてくださいます。イエスさまは言われます。《あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ》。モーセと預言者に耳を傾けなさい。聖書に耳を傾けなさい。そこでわたしについて証しをすると言われるイエス・キリストに出会います。このイエス・キリストに出会うときに、天国への道が開かれます。それはイエス・キリストがわたしの罪のために十字架に死なれ、三日目に死に勝利されて復活してくださり、罪と死の呪いからわたしを解放してくださったからです。イエスさまは問いかけます。《「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」》。聖書に耳を傾けて、イエス・キリストに出会い、この問いかけにこたえていただきたいと思います。

日本基督教団 赤羽教会
〒115-0042 東京都北区志茂2-56-4 TEL03-3901-8939 FAX03-3901-8990
このページは、自称赤羽web委員会(略してAWA)により作られています。