日本キリスト教団 赤羽教会

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[礼拝説教]神の国を見る(2019年聖徒の日礼拝)

大友英樹牧師
2019年11月3日
ヨハネによる福音書3章1-16節

 聖書には過越しの祭りを祝うために、イスラエルの民がエルサレムの町にやって来ることが語られています。イエスさまも少年時代から、毎年、過越しの祭りを祝うために、両親に連れられてエルサレムに来ていました。過越しの祭りは、旧約聖書の出エジプト記にあります出エジプトの救いを祝う祭りです。エジプトの地で苦しんでいたイスラエルの民の叫びに答えて、モーセを指導者としてエジプトから解放されるという神さまの救いを感謝する祭りです。

 今日の聖書箇所は、イエスさまがそうした過越しの祭りのときにエルサレムに滞在しておられたときのある夜の出来事です。ニコデモというファリサイ派に属する、ユダヤ人たちの議員が、ある夜、イエスさまを訪ねました。ニコデモが夜に訪ねなければならなかった理由はいくつかあります。ニコデモはサンヘドリンの議員、聖書では最高法院と呼ばれていますが、国会議員のような者です。ファリサイ派というのは、当時のユダヤ教のグループの一つで、庶民たちが多く、使徒言行録23章にはファリサイ派というのは、復活、天使、霊の存在を信じていたとあります。つまり地上の生活では、庶民生活ですから、そんなに裕福ではなくて、厳しい生活を忍んでいるところがあります。ですからやがて復活のときがくる、天使が守ってくださるというようなことは、大きな慰めであり、励ましでありました。特にこの地上だけで終わるのではなくて、救い主がやってくるとき復活するというのは大きな希望でありました。そんなことからイエスさまに関心を持ちまして、イエスさまの周りにはファリサイ派の人々が集まって来たようです。この人が救い主、メシアではないかという期待です。2章には神殿で商売をしている商人たちを追い出した場面があります。商人たちは過越しの祭りで用いる献げ物を売り買いしていたのです。それは祭りにやってくる人々には必要なことではありましたが、イエスさまは「わたしの父の家を商売の家にしてはならない」と牛や羊を追い出し、両替人の台を倒していきました。そして人々からしるしを尋ねられると、「この神殿を壊して見よ、三日で建て直して見せる」と言われました。人々は驚き、また呆れたことでありましょうが、神殿とは御自分の体のことで、十字架に死なれて、三日目に復活するという意味であったわけです。ニコデモはそんなイエスさまの言動を見聞きしたのでありましょう。そしてファリサイ派の一員としてイエスさまに関心をもったのでありましょう。しかしユダヤの議員としては、昼間、人々がいるなかではイエスさまのところに行くことはできないというプライドもあったかもしれません。ニコデモは夜、イエスさまのところにやってきます。そしてイエスさまとの間に、かみ合わないような対話がはじまります。二つのことがポイントになります。

まず第1は神の国の条件です。イエスさまはニコデモとの対話で、まず3節で《人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない》、さらに5節に《だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない》と言われます。「神の国を見る」、「神の国に入る」というのは同じことを意味していると言えます。神の国というのは、神さまの支配ということですから、神さまがその御心をもって全き支配される天国ということができます。イエスさまがお語りになるのは、「その神の国は、遠い向こう側にあるのではありません。今、この地上の生活の中で、見ることができるものであり、入ることができるものである」ということです。イエスさまはわたしが来たからには、「神の国は見ることができる。そして入ることができる」と言われます。ただその条件はひとつ、新たに生まれることです。
ニコデモはそんなイエスさまの神の国への招きに戸惑い、歯車がかみ合わないような対話を続けます。新たに生まれるということが分らなかったのです。イエスさまが招かれる神の国を見ることができる、そこに入ることができる条件は、新たに生まれることです。しかしユダヤの議員であり、あとのところにはイスラエルの教師と呼ばれているニコデモにはわかりませんでした。ですからニコデモは常識的な答えしかできなかったわけです。4節《ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」》。
ニコデモは「新たに生まれる」ということは、一度母親の胎内に入って生まれることだと考えました。それは聖書の人生観、また世界観が反映しています。創造があって、終わりがある。繰り返されることはないない人生であり、世界である。これがギリシアの世界であったならば、人生は繰り返す、世界は繰り返すという考えがありましたから、「新たに生まれる」と聞いて違う答えがなされたことでありましょう。仏教の影響にある私たちの国ではどうでしょうか。「新たに生まれる」ということで、輪廻のようなイメージをもつことかもしれません。もちろんイエスさまはニコデモのように、ギリシア思想や輪廻思想のように、「新たに生まれる」と言われているものではありません。それでは「新たに生まれる」とはどういうことなのでしょうか。それが二つめのポイントです。

二つめは新たに生まれる条件です。どうしたら新たに生まれることができるのかということです。そして神の国を見て、そこに入ることができるのか。しかも今、それを見ることができて、今そこに入ることができるかかということです。もう一度3節を見てください。《人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない》。英語の聖書を見ますと、「人は、新たに生れなければ」という箇所を、「人は、上から生まれなければ」と訳しているものがあります。「新たに」というのは、「上から」という意味もあります。人が新たに生まれるというイエスさまの言葉は、人は上から生まれることを意味します。「上から生まれる」というのは、さらに不思議な表現ですが、それは神さまのことです。上というのは神の国、天国であって、そこは神の御住まいでありますから、神さまによって新たに生まれることができる。それによって、神の国を見ることができ、そこに入ることができる。ですから新たに生まれることが条件です。
イエスさまはそのことがわからなかったニコデモにさらに語りかけます。5節《だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない》。神さまによって新たに生まれるということは、水と霊とによって生まれるのだと言われます。イエスさまは水と霊とによって、あなたは新たに生まれることができる。そうすれば神の国を見ることも、そこに入ることができる。9節に《するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った》とあるように、それでもニコデモにはわかりませんでした。
ニコデモをしてどうしてわからなかったのでしょうか。それはイエスさまが誰かということが分らなかったかです。ニコデモは大きな関心をもって、その夜、イエスさまのところに来ました。ニコデモはイエスさまを「ラビ、あなたが神のもとから来られた教師であると知っています」と言っています。ヨハネ福音書では「知っている」というのは、「信じている」ということを意味しています。ニコデモはイエスさまは神が遣わした教師であると信じています。7章にはニコデモがイエスさまを擁護する発言をしています。そしてニコデモはイエスさまが十字架で死なれたとき、墓に葬る手伝いをしています。ニコデモがイエスさまを少しずつ知り、心に信じるだけではなくて、最後には公にするように墓に葬るということでその信仰を表わしました。しかしこの時には、まだイエスさまがわかりませんでした。
イエスさまはそんなニコデモに10節からのところでメッセージを語ります。それはモーセが出エジプトの荒野の旅をしている間、民数記21章にはイスラエルの民が呟いたとき、炎の蛇が現われて人々を噛みついたことがありました。モーセは青銅の蛇をさおに刺して掲げて、それを仰いで命を得るようにした出来事を語りながら、人の子も、つまりイエスさまご自身が十字架に挙げられなければならない。それは16節に《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである》と語るように、神さまの御業であります。
イエスさまは神のもとから来られた教師であるとはまことです。そのように尊敬された教師は他にもいたことでありましょう。しかしイエスさまはただ教師であるのではありません。13節には《天からの降ってきた者、すなわち人の子のほかに天に上った者はいない》と「人の子」と言われます。「人の子」とは旧約聖書にあるメシア、救い主のことです。さらに16節には「独り子」とあります。神の独り子、御子です。イエスさまはメシアであり、神の独り子であり、そのお方が十字架に挙げられる。それは独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためであります。
そういうイエスさまを信じて、水と霊とによって新たに生まれることができます。水と霊とによって、それはイエスさまによって教会に命じられている水のバプテスマ、洗礼の恵みです。イエスさまは信じてバプテスマを受ける者は救われると約束されました。イエスさまの十字架を信じて、洗礼を受ける者はだれでも、この地上にあって神の国を見ることができる、そこに入ることができる。それがイエスさまの招きです。ニコデモは時間がかかりましたが、やがてイエスさまをまことに意味で信じて新たに生まれた者となりました。今日、聖徒の日の礼拝でここに写真を並べ、覚えられている兄弟姉妹たちも、イエスさまを信じ、洗礼を受けて、新たに生まれた者たちです。今は天にあってともに礼拝をささげる聖徒たちは、このようにイエスさまを信じて、水と霊とによって新たに生まれる恵みに生きました。《人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない》。あなたは水と霊によって、新たに生まれているか。イエスさまは、今日もあなたを招いておられます。

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