日本キリスト教団 赤羽教会

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[礼拝説教]主の道を整える

武石晃正伝道師
2019年9月15日
マタイによる福音書3章1-12節

はじめに

 先日、と申しましても5月のことになりますが、ある方々にご一緒させていただいて国立演芸場へ行ってまいりました。以前より一度は行ってみたいと思っておりましたので、ようやく念願かなった次第でございます。誤解される方はおられないでしょうけれど念のため申しておきますが、私が参りましたのは寄席の高座のほうではなく客席のほうでございます。くれぐれもお間違えないように。

 それにしても噺家さんたちの話芸というものは素晴らしいものですね。人様の前でお話をするということだけで言えば、説教者という働きも似たようなところがございます。説教の品位が芸事に落ちない程度に、聞きやすさ、表現の豊かさなど話し上手を目指したいところです。

 聞いてきた話で恐縮ですが、面白いなと思ったことを一つだけお分かちします。そうそう、面白いことを聞いてきたと前振りして喋る人の話ほど、聞く側にとってつまらないということは重々承知でございます。一つだけと申しましたが、寄席で喋っていたのは二ツ目の方でした。二ツ目が何だか分からなかった方、礼拝の後で後ろに立ってますのでこっそりお尋ねください。

 「ご来場の皆さん。寄席のお客様にはランクが2種類あるのをご存じでしょうか。一つは、上。上中下の一番上の上です。そしてもう一つはと申しますと、『上』があるのですから、(間をおいて)『特上』でございます。今日のお客様は、特上でございます」

 噺家さんたちは随分と客席を持ち上げるものだなあと感心して聞いておりました。一方で私どもはと申しますと、イエス様だけが神様ですから、「お客様は神様です」といったようは持ち上げ方はいたしません。代わりと言うわけではありませんが、朝に夕にと皆さんのことを覚えて名前を挙げて祈っています。

 ところで普段の生活の中でも、2種類あるなら自分はどちらだろうかと考えることは時々あるかも知れません。皆さんの人生が神様の前で上か特上かと聞かれたら、どちらがよいでしょうか。


 1.悔い改めよ(1-3、ヨハネの宣教について) マタイによる福音書は2章までがイエス・キリストの生い立ちについて書かれています。1章ではイエス様がユダヤの歴史上にお生まれになったことを示すための系図と、母マリヤとその夫ヨセフについて書かれています。2章では当時ユダヤの統治を任されていたヘロデ大王と、メシヤを礼拝するためにやってきた東方の学者たちが登場します。ヘロデの凶行を避けるため、ヨセフたちは一時エジプトへと避難していました。

 そのころ(1)との書き出しから3章へと区切られています。いつのころかと申しますと、ヨセフたちがエジプトから帰ってきてから30年ほど後のことです。随分と間があいてしまったようにも思えますが、マタイが書き記したのはこの出来事から少なくとも更に30年は経っています。年数だけで見れば、現在の私たちが「昭和の頃に」と60年余りをひとくくりにする感覚に近いかもしれません。「あの日々はユダヤの国がヘロデ一族に支配されて、みんな本当に苦かったね」と言えば年代に幅があっても共感できるような、そういう時代感覚で押さえておきます。

 突如、洗礼者ヨハネが現れます。この人物については4つの福音書すべてに記されていますが、いずれも詳しい説明がありません。当時の人たちがみな知っていた、むしろ時代を象徴する存在だからでしょう。もう亡くなられてかれこれ30年以上経ちますが、坂本九さん(1941-1985)と言えば若い世代でも特に断りなしに通じる名前です。そして彼の名前には「上を向いて歩こう」「見上げてごらん」と曲名が連なるように、洗礼者ヨハネには「悔い改めよ」(2)「ふさわしい実を結べ」(8)とのメッセージが語り継がれたのでした。そして時代を越えて21世紀に生きる私たちにも、ヨハネからこれら2つの決心が示されているのです。

 ではその一つ目である「悔い改めよ」から見てまいります。これはまずユダヤ人に向けて語られた言葉です。彼らは主の契約によって神の民とされていましたから、注目すべき点は神の民に向けて悔い改めが命じられたということです。この「悔い改めよ」を補って言い換えるならば「罪を離れて、主に立ち返れ」という意味になります。帰る場所があるから立ち返ることができるのです。これはかつてイスラエルの国が南北に分かれていた頃に、それぞれの王朝と人々に対して遣わされた預言者たちのメッセージと同じ使信であり、旧約聖書の中に何度も何度も語られている神の言葉です。しかし彼らの祖先たちは預言者たちの言葉を拒み、悔い改めることをしませんでした。その結果として神のさばきが下り、北王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、南王国はバビロニア帝国によって破壊と略奪に遭ったのでした。

 ヨハネは「天の国は近づいた」と悔い改めの理由を続けて宣べています。「天の国」とは「神の国」の意味です。ヨハネもマタイもユダヤ人でしたので、彼らは創造主なる神様の名をみだりに唱えることを禁じられていました(出20:7)。直接お呼びすることなく、御住いである「天」を指してみこころを宣べ伝えました。近代日本における「御」という一字にある特定の用法と似ているものがあります。「国」とは「王国」であり、この時代は国境で示される土地ではなく支配者の実力が及ぶ範囲を示します。つまり「国が近づく」とは、皇帝あるいは全権を委ねられた将軍が領土の拡張あるいは奪還のために一個師団を率いて乗り込んでくる様子です。

 以前はアッシリアやバビロニア、ヨハネの時代にはローマという強大な帝国が支配していました。どれほど力があるとは言っても所詮は人間に過ぎませんし、これまでも何とか細々とでも生き延びてくることができました。しかし創造主なる神ご自身が直接に手を下そうというものなら、一体どうして人間は立ち向かうことができるでしょうか。王が到来した時に現地の人々が王の民として振る舞っていなければ、反逆者としてうち滅ぼされるのは火を見るより明らかです。神の民だと言ってもふさわしい生き方をしていなければ、厳しいさばきに遭うのです。

 さてそれがいつのことであるかと、ヨハネのことば「主の道を整えよ」が示しています。この「道」とは王の本陣が侵攻するための舗装路です。エルサレムのような強固な都市を攻める際、まず歩兵や騎兵による先陣が包囲するための塁を築きます。街の出入りを封じ時間をかけて兵糧攻めにし、他方で本陣が馬車や戦車を率いてくるための道を整えるのです。凸凹を均すだけでなく傾斜をなだらかにするために盛り土をします。路側にかけて勾配をつけた舗装をすることで水はけがよく、ぬかるまない道路が出来あがります。伝令の早馬がより早く駆け抜け、支配者が乗った戦車は勢いを衰えることなく進んできます。

 「道を整えよ」との御触れが出ると、その後を追って直ちに舗装工事が始まります。王の命令ですから最優先に取り掛かられ、速やかに実行されるのです。整えられ、まっすぐにされた道が目の前まで敷かれたときには、もはや包囲された側には打つ手が一切ないのです。洪水のような勢いで虐殺と略奪、そして荒廃がやってくるのです。ですから「道を整えよ」と叫ぶ者の声はまさに最後通牒であり、彼が現れた時点で降伏しなければもはや手遅れになります。「いますぐに悔い改めよ、さもなくば後がない」と事の深刻さと緊急性をヨハネは荒れ野から神の民に向かって叫び続けたのです。

2.ふさわしい実を結べ(4-10)

 さて、当時のユダヤの人々は主の祭、特に過越祭を祝うためにエルサレムの都へと上ります。恐らくその道中でヨハネを見かけた者たちがおり、彼らが都でヨハネの噂をしたということでしょう。「ヨルダン川の向こう岸、そこの荒れ野で何か叫んでいる物好きがいるぞ」との変わり種が流れ始めると、帝国の支配や傀儡王朝の圧制にへきえきしていた人々は興味本位でもヨハネのところへやってきます。

 神の言葉を宣べ伝えているというからどれほど立派な姿だろうかと期待してやってくると、そこにはらくだの毛衣(4)を着た粗野な風貌の男が大勢の人々に向かって叫んでいます。それは貧しい農夫たちが身を包むための衣服でした。どうやら彼は野宿で暮らしており、野から取れるもの(5)で飢えをしのいでいるようです。

 ヨハネの姿、そして彼の後ろに広がる果てのない荒れ野を見たユダヤの人たちは敏感に反応しました(5)。彼らの目に映るヨハネの姿はまさに預言者イザヤその人でした。預言者イザヤは自らも同国人から打たれ苦しめられ、また荒れ野を渡りながら神のさばきを警告した人でした。略奪が速やか来るという意味の名前を自分の息子に名付けたこともありました(イザヤ8:3)。

 広々とした荒れ野を見渡せば、かつてバビロニアに略奪され荒れ果てた祖国の姿が思い起こされます。彼らの祖先が罪を犯し続けて悔い改めなかったために、外国の侵略を受けて荒廃してしまったのです。イザヤをはじめ預言者たちの警告を無視したために、エルサレムは陥落し、神の民はバビロン捕囚という憂き目に遭ったのです。

 この洗礼者ヨハネに荒れ野で出会ったユダヤ人には2種類の人たちがいました。まず第一は荒れ野でヨハネの姿を見、彼のことばを聞いて大切なことに気づいた人たちです。それは、神の民であると名乗っているだけでは何の救いもないこと、形だけの祭儀を続けていても心が伴わなければ神に受け入れられないということです。このことに気づいた彼らは、神の民として安息日や神殿へのいけにえなどの律法を守っていたにも関わらず、自らの罪として荒れ野の只中で告白しました(6)。そして悔い改めのバプテスマをヨルダン川で受けました。

 他方はファリサイ派やサドカイ派と名指しされている人たちです(7)。それぞれユダヤの一派であり、それぞれの立場からユダヤの人たちを指導していた宗教家でした。彼らは人々が荒れ野にいるヨハネの教えに傾倒するのを見て、あたかも自分たちが敬虔であるかのように見せようとヨハネのバプテスマを受けに来たのです。人々の間からはこんな声が聞こえたかもしれません。「おや、あそこにおいでなのはファリサイ派の先生じゃないか。いつも安息日に会堂で聖書の教えを説いて、普段は街角でみんなのために祈ってくださる。そして病人や貧しい人たちを見舞っておられる立派な先生たちなのに、俺たちとヨハネのところに来て悔い改めているのか。なんて謙遜な先生がたなんだろう」。

 そこへヨハネが一喝します。「蝮の子らよ。差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」と。実にファリサイ派の多くは指導者としてユダヤの律法を事細かに教えたり実行したりすることはありましたが、それはあくまでも自分たちの地位や名誉のためでした。サドカイ派は貴族などの上層階級と親しく、富と権力を愛していました。神の民、その指導者でありながら、その名にふさわしい者ではなかったのです。にもかかわらず、彼らはヨハネの説教を聞いても悔い改めようせず、形式だけのバプテスマを受けようとしたのです。自分たちの手の中にある利益を手放さずに、人々の関心を得ようとしただけなのです。

 この2種類の人たちはどちらもユダヤ人であり、神の民とされていた人たちです。同じように安息日を守り、同じように律法の定めに従い、同じように種々の祭を祝っていました。外側から見ただけでは区別がつきません。だからヨハネは言うのです。「悔い改めにふさわしい実を結べ」と(8)。同じように見える樹木でも、良い実を結ぶ木と結ばない木があります。幹や枝だけでは分かりませんが、「木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる」(マタイ12:33)のです。また穀物の籾も同様です(12)。刈り取ったばかりの麦の穂は殻だけなのか実が詰まっているのか、見た目だけでは分かりません。けれど脱穀して風に当てると殻だけのものは飛んで行き、実を結んだものは残ります。

 同じ見た目でも中身が伴うか、伴わないかの2種類に分かれるのです。だからこそ「悔い改めにふさわしい実を結べ」と言われています。

 3.主の道を整える(11,12、主をお迎えする備え)

 天の国すなわち神ご自身の到来が差し迫っていることに際し、「悔い改めよ」「ふさわしい実を結べ」とヨハネは力強く説きました。この教えを聞いた人たちの中には、心から悔い改めた者と、形式だけ洗礼を受けようとした者と2種類の人たちがおりました。

 ここでヨハネは自分の後から来る方がこれら2種類の人々をより分け、おさばきになると証しします(11)。「道を整えよ」と御触れを叫ぶ者の後から来るのですから、それはまさに王であり主である方です。速やかに到来し、かつてバビロニアがエルサレムを略奪し破壊したように徹底的に実力を行使されます。その様をヨハネは「切り倒されて火に投げ込まれる」(10)、また「殻を消えることのない火で焼き払われる」(12)と述べています。

 さて今日の箇所は確かにヨハネがユダヤ人を相手に説教をしているという内容には違いありません。しかし私たちが覚えるべきは、マタイが何十年か経った後にあえてこの出来事を書き残したということです。そして聖霊はマルコとルカにも福音書に同じく書かせており、いずれもファリサイ派やサドカイ派のユダヤ人に対してではなく教会のために記されたということです。もし彼らを断罪する為だけにヨハネが語ったのであれば、その時点で話は終わっており単なる記録に過ぎないのです。

 つまりヨハネの2つの重要なメッセージは直接ユダヤ人に語らえただけでなく、書き記されたことばとして教会に対して向けられたわけです。更に聖書の中に収められたことで、いつの時代にあっても教会に対して与えられています。すなわち地上において神の民とされた者たちに対し「悔い改めよ」「ふさわしい実を結べ」と常に命じられているのです。そして「聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(11)お方が、まもなく再び天からおいでになるのです。まさに天の国が近づいているのです。

 私たちは聖書に照らせば異邦人ですから、イエス・キリストの血による契約によってはじめて神の民とされた者です。神の民としてふさわしい実を結ぶかどうかが問われています。キリストを信じてバプテスマを受け、初めのうちは見様見真似で礼拝や祈祷会に出席します。「クリスチャンなのだからこれこれを守りなさい(あるいは、してはいけません)、教会ではこうするものです」と先輩クリスチャンから口伝えで教わります。それが聖書に書いてあることか文脈に適っているかなど気にする余裕もなく、まずは言われたとおり形から入ることが多いのではないでしょうか。それはそれでよいのです。

 けれども、礼拝や集会に出席することそのものが目的になってしまったり、主にお仕えするのではなく自分の居場所を作ることが優先されてしまっては、ファリサイ派やサドカイ派と何ら変わりありません。主イエス様は「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」(マタイ5:20)と弟子たちにはっきりと戒めておられます。

 イエス・キリストを信じてバプテスマを受けたからこそ、神の民としてふさわしい実を結ぶことが求められています。もしそこから反れたり離れたりしているなら、悔い改めが必要です。すでに救いの恵みに与っているからこそ、全ききよめを求めて歩むのです。

 「悔い改めよ」と荒れ野の叫びが聞こえますか。

 「ふさわしい実を結べ」。良い木かどうかは実を見れば分かりますが、実を結んでからでは間に合いません。実を結んでいるか殻だけなのか、この場で見回してもお互いに外側からでは分かりません。

 天の国はいつ来ても不思議ではありません。主のお姿が見えた時に気づいたのでは手遅れです。きょう私たちはこのみことばを聞いたので幸いです。今なら間に合います。神の民でありながらその道から離れてしまっている方がいたら、私たちが荒れ野の声となりましょう。

 「主の道を整え」る。教会はこの世の荒れ野で叫ぶ者。この地の人々に悔い改めと主の再臨を告げ知らせるのです。

 <まとめ>

 ヨハネの前でユダヤの人たちは2種類おりました。彼らは神の民ですから、全くの異邦人で全くの異教徒よりは神に近い存在でした。その点だけなら、少なくとも「上」だと言えましょう。私たちは神の民として「上」でよいのでしょうか。悔い改め、きよめの恵みに与り、特上でありたいものです。

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