日本キリスト教団 赤羽教会

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[礼拝説教]水の上に踏み出す信仰

武石晃正伝道師
2019年10月13日
マタイによる福音書14章22-33節

 私たちの人生はしばしば大海原を行く船に例えられることがあります。順風でよく晴れ渡った日もあります。逆風に悩むこともあれば、大嵐に翻弄されることもあります。

 実際に昨晩のような台風に遭いますと、大海原に出なくとも嵐の前に自分の無力さを感じます。幸いこの建物には大きな被害はありませんでしたので、神様の特別な守りを覚えて感謝しています。被害を防ぐためにいくらかの努力はいたしましたが、嵐に抗うことはとうてい人間の力ではかなわないものです。  台風が来ると思って選んだわけではありませんが、本日の聖書の箇所はおりしも嵐にまつわる出来事の記事です。人生の嵐の中にあって、一筋の希望を見出すことができれば幸いです。

 さて、イエス・キリストについて初めてお聞きになるという方もおられるかもしれません。まずこのイエスその方について、手短にお話ししましょう。今から2000年ほど前のイスラエルにおいて、ユダヤ人の娘マリヤが神の使いのお告げを受けました。神の霊によって子を宿し、婚約者であったヨセフという男性に妻として迎えられ、男の子を生みました。それが神であり、人として生まれたイエス・キリストです。幼子イエスは成年までをイスラエルの北部にあるガリラヤという地方で育ちます。そのガリラヤ地方のナザレという村で、養父ヨセフの家庭において母マリヤや兄弟たちと過ごされます。30歳ぐらいと見られていたころにバプテスマのヨハネより洗礼を受け、この時から神の国の到来をユダヤ全土へと宣べ伝え始めました。

 ガリラヤ地方から始まったイエスの宣教は、人々の罪を赦し病を癒すことで人々からの人気は絶大でした。人里離れたところへ退かれても、方々の町から病人をつれた人々が群衆として押し寄せてきたこともあります(14:13)。

人気を博した反面、ユダヤの宗教指導者らの反目に遭います。3年余りと言われる宣教活動の末に首都エルサレムの郊外で捕えられ、不当な裁判にかけられます。罪がない方が極刑に定められ、十字架にかけられ無残にも殺されたのです。しかし神はそのまま捨て置かれず、イエスは3日目に死人のうちよりよみがえりました。復活と天に昇られたこと、再びこの世へ来られることは使徒信条を通して告白した通りです。

 私たち罪人の救いのために神の子ご自身が十字架にかかられたこと、この方の復活と再臨に私たちの希望があります。ですから今日もこのイエス・キリストのみわざについてお証しをいたします。

1.嵐の湖上と漁船

 イエスは数々の奇跡を行いましたが、本日の箇所はこの5000人の給食と知られる奇跡の直後の出来事です。男だけで5000人、その家族らの空腹を満たすという素晴らしい奇蹟を弟子たちは体験しました。とはいえ、非常に大勢の人々への対応で弟子たちはヘトヘトに疲れたことでしょう。イエスはその労いから、弟子たちを舟に乗りこませ、向こう岸へと送り出しました(22)。実は12人の弟子のうち4人がガリラヤの漁師たちでしたので、舟に乗せてしまえば任せて安心です。

ところが先に舟で対岸へ向かったはずの弟子たちではありましたが、岸から数スタディオン(約1㎞)ほどのところで「逆風のために波に悩まされていた」(24)と書かれています。ガリラヤの漁師が4人も乗っていながら、それでも向こう岸までたどり着けないほどの嵐だったということでしょうか。真っ暗な湖上で舟は波風に大きく揺られ続けます。弟子たちは早く夜が明けることを願いながら、ただただ東の空が明るくなることを待つばかり。1時間が何時間にも感じられた一晩です。

 湖の上をイエスが歩いて来られた時、どのような様子だったでしょうか。果たしなく続くかのような暗闇も、永遠ではありません。ようやく東の空が色づいてきます(25)。ふと誰かが逆巻く波間の向こうを指さして叫びます。「何かいるぞ!」と。ガリラヤの漁師たちが目を凝らすと、彼らでさえ見たことがない化け物が湖の上に大きな影を落としています。その怪物は、赤らみ始めた東の空を背にして真っ直ぐ舟を目指して向かってくるではありませんか。

 「幽霊だ!」弟子たちは恐怖のあまりに口々に叫び声を上げ、舟の中は大混乱に陥りました(26)。

 ところが、風に紛れて人間の声のような叫びが聞こえてきます。ここはガリラヤ、首都エルサレムから見ればサマリヤを越えて北の果てです。日本に置き換えれば東京から見た東北地方にあたるでしょうか。ある箇所によればペトロもイエスも言葉遣いで同郷と分かる節がありますので(26:73)、東北出身の私なりにこの部分だけ声色を変えて読み替えてみます。「おーい、お前ぇたち。慌てんなぁ、俺だぁ俺~!そんなに怖がんなぁ」このような雰囲気になります。風の向こうから聞こえるこの声は、確かに弟子たちに聞き覚えのあるイエスのものだったということです。

 なんと彼らの愛する主は、弟子たちが苦しんでいる様子を見つけて、自ら「湖の上を歩いて」来られたのです(25)。髪や髭は向かい風にぐちゃぐちゃに乱され、衣類は波しぶきでずぶ濡れになって肌に張り付きます。そのボサボサのグチャグチャが誰は彼時の薄暗がりの中を、波頭をかき分けながら大股で水の上を歩いてきたのです。何も知らずに遠目で見れば、不気味な怪物としておびえるのも無理もありませんね。

 人として生まれて私たちと同じ姿をとられた主は、びしょ濡れになろうとずぶ濡れになろうと形振り構わずに駆け寄ってくださる慈しみ深い方です。

 湖上から響くイエスの声にペトロが答えました。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらへ行かせてください」(v.28)。興奮気味だったかどうか、表情までは分かりません。この目撃者の視線は水面を漂っていたことでしょう。「来なさい」とのイエスの声が聞こえます。ペトロの足が舟から下ろされ、水の上を一歩一歩を踏んでいきました。

ところが、ペトロは強風におびえて沈みかけます(30)。信仰が薄いと言われても、招きの声に従って歩みだす信仰があったのです。そして沈みかけるという危機において真っ先に助けをイエスに求めました。その彼を主イエスはしっかりと捕らえて、一緒に舟に乗り込みました(31,32)。

 他の弟子たちが期待と不安を胸に抱えながら水面を見つめたことでしょう。水に沈むペテロを見て、彼らの心も深みに沈みそうでした。そして舟に乗りこんで嵐を静められたイエスを迎え、弟子たちがこぞって「本当に、あなたは神の子です」と拝みました(33)。ペトロの足を水の上に踏み出させた信仰が、弟子の集まりの中で明確な告白へと結ばれたのです。

2.水の上に踏み出す信仰

 ところで、皆さんの中に水の上を歩いたことがあるという方はおられるでしょうか。稀にいらっしゃるかもしれませんが、残念ながらそのような方にお目にかかったことがありません。かく言う私も水の上を歩けた試しがありません。

 できるできないということであれば、練習や訓練を積むことである一定のところまではできるようになる技能もありましょう。向き不向き、得手不得手というものもありますのでもちろん一概にはできかねます。とはいえ、自分がやったこともできた試しもないことについて、「できるはずがない」「そんなことは嘘か錯覚に決まっている」と振り払ってしまってよいのでしょうか。

 先ほどピアノでとても素晴らしい演奏をしていただきました。皆様のほうから見えたか分かりませんが、その指はどれほど素早く正確に動いていたことでしょう。残念ながら講壇のほうからは演奏者の手元が見えません。見えないからといって、ピアノを弾けない私が「あんなの人間にできることじゃない、何かカラクリがあるに違いない」と言ったらどう思われますか。せっかく素晴らしい働きをしてくださった方に対して、何と失礼なことでしょう。できもせずやりもしないくせに何を言っているのか、と叱られるかもしれません。私にできなくてもピアニストにはできるのです。

 話を聖書に戻します。主イエスはずぶ濡れになりながらも弟子たちを励ますために真っすぐ歩いて来られました。愛する弟子の求めに応じて彼を自分のもとへと招き、沈みかけた彼を直ちに助け上げられました。一方ペトロは、確かに風を恐れて沈みはしましたが、他の誰にもできないことを一度はやってのけたのです。こんな素晴らしい出来事に誰が水を差してよいものでしょうか。私たちが覚えるべきは、人間にとって不可能だとしても「神にできないことは何一つない」(ルカ1:37)ということです。

 イエスはペトロを「信仰の薄い者」とは呼ばれましたが、この「信仰の薄い者」という言葉の中に不信心であるとか疑い深いというような否定の意味までは含まれていません。信仰がないわけではないのです。現にペトロは自分をも水の上を歩かせられると、イエスを信じたのです。そしてその通りになったわけです。沈みかけた時も真っ先に「主よ、お助け下さい」と呼び、イエスが自分を助けることができることを告白しています。その告白の通りイエスはペトロを助け上げられました。

ペトロに信仰はあったのですが、ただ十分には至っておらず「いまひとつ」「おしいところまでいっている」状態だったわけです。まして弟子たちを案じて自身もずぶ濡れになりながらやってきたほどの方が、どうして愛する弟子に向かって「なぜ疑ったのか」と意地悪な物言いをすることがありましょうか。

 このやり取りについて「君の信仰は惜しかったよ。どうして疑っちゃったんだろうね」と語りかけられたように私は受け止めています。疑い不安に思った結果として、ペトロは水に沈みかけました。返して読めば、少なくともその時点までは彼に疑いもためらいもなかったのです。イエスの力はペトロの信仰に働き、彼に水の上を歩かせたのです。「来なさい」というイエスの招きに従ったとき、彼は足りないながらもその信仰によって水の上に踏み出したのです。 足りなかろうが小さかろうが、信仰があれば踏み出すことができるのです。救いを求めれば、主は手を伸ばして捕らえてくださいます。

3.手を差し出された手

 水の上を歩くという極めて稀な、人類にとってほとんど不可能な出来事が起こりました。つい珍しいものに目を奪われてしまいますが、もう一つ大切な出来事が記されています。それは「イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ」たということです(31)。

 この差し伸べられたイエスの手について、しばらく何日か思い巡らせておりました。そんな中、ちょうど1週間ほど前のことですが、私は全く別のきっかけからある方と握手をする機会がありました。たしかにそれは差し出した手を握り返していただいたという、それだけの行為かも知れません。けれども、私はその手をとても暖かく、頼もしく感じたものです。また同時に、手を伸べたという行為からいくつかのヒントに気づきました。差し支えなければ皆さんも、隣あるいは前後の方どなたかと握手をして確かめてみませんか。

 いかがでしょうか。この握手という行為について要素を3つだけ取り上げてみます。まず一つ目は、二人の人物の実在です。握手は一人ではできません。同じくイエスとペトロが実際に存在して、手を伸ばす者と捕らえられた者が揃うのです。二つ目は、信頼関係あるいは信仰です。全く信頼していないとか無関心では握手になりません。不十分なりにもペトロに信仰があったので、イエスは彼に手を伸ばされたのです。三つ目は、どちらかに主権があるということです。開いた手を二人が同時に出すのはジャンケンのあいこで、握手ではありませんね。イエスとペトロに相互の関係はありますが、主権は手を伸ばされたイエスにあるのです。

これらのことから言えることは、①この出来事が事実であり、ペトロとイエスは水の上に立っていたこと、②ペトロの信仰をイエスが受け入れていたこと、③イエスは自身を信じ求める者を確かに救われるということ、です。私たちが信仰の薄い者であろうと「助けてください」と求めるならば、イエス・キリストご自身が神の御腕をもってしっかりと救い出してくださいます。

おわりに

 沈みかけたペトロに手を伸ばして助けられたイエスを、他の弟子たちは見ていました。ペトロばかりでなく彼らも、イエスを神の子であると告白しました。

あなたが今もし溺れそうなほどの困難にあるなら(あるいはそうでなくとも)、イエス・キリストに「助けてください」を呼びましょう。主はあなたを救ってくださいます。

 キリストを信じることは、あなたにとって水の上に踏み出すように不安かもしれません。見えない神を信じるということに不安を覚えるかもしれません。けれども今はそれでもよいのです。主イエスは沈むことも承知の上で、「来なさい」とあなたを招いておられます。そして、いつでも手を伸べてあなたの魂を救ってくださる方です。

 水の上に踏み出す信仰をもって、私たちも神に近づきましょう。

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