日本キリスト教団 赤羽教会

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[礼拝説教]ほかの福音はあるのか

大友英樹牧師
2019年9月1日
ガラテヤの信徒への手紙1章6-10節

《わたしはあきれ果てています》。今日の聖書の御言葉は、このパウロの言葉からはじまっています。わたしたちの聖書は、日本語の性質から「わたしはあきれ果てています」というのが最後にありますが、原典では冒頭部分にあります。《わたしはあきれ果てています》。この言葉のうちに、パウロの驚きや嘆きを見る思いがいたします。パウロがこのガラテヤの手紙を書いているのは、諸説ありますが、52年頃にコリントにおいてでありました。

手紙の宛先であるガラテヤの教会がどこにあるのかということは、新約学者の間では大きく2つの考えがあります。一つは北ガラテヤ説、もう一つは南ガラテヤ説です。北ガラテヤ説は、パウロの第3回伝道旅行のとき、55年頃にエフェソでこの手紙を書いたと考えます。南ガラテヤ説は、第2回伝道旅行のとき、52年頃コリントで書いたと考えます。使徒言行録のパウロの伝道旅行の流れとガラテヤの手紙を読み比べていきますと、わたしは理解しやすいのは南ガラテヤ説ではないかと思います。

そうしますと、パウロが52年頃コリントでこの手紙を書くことになったのは、第1回、そして第2回の伝道旅行で巡回したガラテヤの教会、それはガラテヤ地方の教会ですから、ガラテヤの諸教会ということになりますが、そのガラテヤの教会が「ほかの福音に乗り換えようとしていること」を伝え聞いて、驚き、嘆いて、この手紙を書きはじめなければならなくなったということです。パウロの手紙は、当時の手紙の形式に則りながら、挨拶からはじまって、その後には受取人への感謝がつづられます。しかしこのガラテヤの手紙は、挨拶のあとに感謝が述べられるところで、《わたしはあきれ果てています》というように言葉が続いていきます。このときのパウロの思いをいくつかの聖書の翻訳で読み比べてみると知ることができるかと思います。新しく出版されました聖書協会共同訳聖書では「わたしは驚いています」、2017年に出版されました新改訳聖書2017も同じです。岩波新約聖書では「驚愕している」、無教会の塚本虎二訳では「わたしが不思議に思うことは」というようになっています。その知らせにどうしてなのかと驚き、驚愕し、不思議に思い、あきれ果てる。それは《こんなにも早く離れて》しまうということへの驚きであり、驚愕であり、不思議さであり、なんということかあきれ果てている。そんなパウロの思いが見えてくるようです。

《こんなにも早く離れて》しまったというのは、パウロの第1回目の伝道旅行であれば、4年前ぐらい前に、第2回の伝道旅行であれば2年ぐらい前にイエス・キリストの福音を聞いたということでありましょう。そういう2年とか4年という時間的な意味で《こんなにも早く離れて》しまったということもできますが、さらには神さまが与えてくださったキリストの恵みから「こんなにも簡単に離れてしまった」という意味合いも込められていると思います。いずれにしても、キリストの恵みへと招いてくださった方、つまり神さまの招きをいただいて、それまでの偶像礼拝などの罪を悔い改めて、方向転換して、イエス・キリストの十字架と復活による救いをいただいたにもかかわらず、こんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。これがパウロがこの手紙を書く動機となりました。

《ほかの福音に乗り換えようとしている》、パウロはそう言いながら、《ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく》と続けています。ほかの福音はあるのかといえば、それはない。もう一つ別の福音があるわけではない。福音は一つである。ですからここでガラテヤの教会の人々が乗り換えようとしているほかの福音というのは、「似て非なるもの」ということです。外観は似ているかもしれませんが、その内実は異なるもの、似て非なるもの、それがほかの福音であります。このほかの福音ということについては、具体的には3章、4章で取り上げられる律法による救いか、信仰による救いかという問題です。パウロが伝道した後に入ってきたユダヤ人キリスト者が、救われるためにはキリストを信じるだけでなくて、モーセの律法に従うことが必要であり、条件であると教えたようです。ガラテヤ地方でクリスチャンとなった人々は、当時の社会状況で考えてみれば、偶像礼拝をしなくなったというようなことなど、その社会の交わりから離れていくことになります。そうしたことから、社会的な孤立であったり、それまでの自分を支えていたものから離れていくことで、不安の中にあったりしたようです。そうしたところに、ユダヤ人キリスト者がやってきまして、あなたがたが従うのはモーセの律法である。これがクリスチャンとなった新しい自分を支えるものである。そこまでならよかったかもしれません。しかしモーセの律法に従うこと、その中でも割礼を受けること、これが救いの条件であるということになりますと、それは福音の変質、似て非なる福音があらわれてきます。ガラテヤの教会の人々は、今その「ほかの福音」に乗り換えようとしている。似て非なるほかの福音に、福音ならざるほかの福音に傾いてしまっている。それはパウロに言わせれば、《ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです》(7節)。聖書協会共同訳聖書では「ある人たちがあなたがたをかき乱し、キリストの福音をゆがめようとしているだけなのです」、ほかの聖書では「あなたがたを動揺させ、福音を変質させようとしている」となっています。福音ならざるものに福音が変えられてしまう。似て非なるものに変えられてしまう。そういう似て非なる福音を宣べ伝える者は、《呪われるがよい》と二度繰り返し語っています。

《呪われるがよい》とは、あまりよい言葉には思えません。まして聖書の御言葉に《呪われるがよい》とはどういうことかと思われるかと思います。聖書には呪いというのがありますが、それは神さまに対する罪の呪いです。ここでパウロが語るのは、「神さまの裁きの御手におかれよ」ということです。この《呪われるがよい》というのは、」聖書ではアナテマと言います。そして教会は似て非なる福音に、福音ならざる福音に、福音をゆがめようとする者にアナテマ、呪われるがよいと宣言してきました。わたしたちの時代にも、《ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしている》とあるように、似て非なる福音を宣べ伝える、キリスト教ならざるキリスト教を宣べ伝える異端というものがあります。それはキリストの福音からすれば《呪われるがよい》という似て非なる福音です。

聖書は語ります。8節《しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい》。さらに9節《あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい》。「あなたがたに告げ知らせたもの」、つまり福音です。そして「あなたがたが受けたもの」、それも福音です。この告げ知らせ、受けたものは、Ⅰコリント15章にその中心メッセージがあります。《最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、 ケファに現れ、その後十二人に現れたことです》。イエス・キリストの十字架の復活の福音です。それがわたしたちが礼拝において告白している使徒信条に結晶しています。この使徒信条を信じて、告白するかどうか。それがまことの福音なのか、似て非なる福音、つまり異端なのかが峻別されます。異教というものは、クリスチャンを惑わし、キリストの福音を覆し、変質させようとはしないでありましょう。しかしキリストの異端というのは、似て非なる福音を宣べ伝える異端というものは、わたしたちを惑わし、キリストの福音を覆そうとします。異端というのは、三位一体なる神を信じません。神は唯一であるから、父・御子・聖霊の唯一なる神を信じない。

赤羽にもあるますが、エホバの証人という異端は、神は唯一であってエホバであると言います。聖書に神はエホバとあると書いてあると言います。文語訳聖書では確かに神をエホバと訳していました。当時の宣教師たちが読んでいた英語の欽定訳聖書がエホバとなっていたからです。実はこれは間違った翻訳でありまして、ヘブル語の神という言葉はアドナイ(主)と読むというルールを忘れてしまって、間違ってエホバと訳してしまったわけです。今日の旧約学者はヘブル語で神というのはヤーウェと読むであろうと考えています。異端は三位一体は聖書にないと言います。しかしイエスさまの御言葉をよく読んでいる人はわかるように、「わたしと父とは一つである」、「父がわたしの名によって遣わされる聖霊がすべてを教える」というように、イエスさまご自身が父と御子と聖霊の三位一体の神を証ししています。

またエホバの証人は三位一体を否定しますから、イエスさまは神の子であるけれども神ではないと言います。神でない完全に人間であるイエスさまが死なれた、しかも十字架ではなくて杭につけられと言います。そして罪が贖われたと言います。異端というものは、イエスさまがまことに神であり、まことに人間であるというキリスト教信仰の中心を否定します。そのように異端というものは、今日におきましても、わたしたちを惑わし、キリスト教信仰をゆがめ、覆そうします。教会はそうした異端にアナテマ、呪われるがよいと一線を引いています。わたしたちも聖書を学び、代々の教会が信じ告白している使徒信条を学ぶなどして、ほかの福音というものはありませんが、しかし似て非なる福音、異端というのがいつでもわたしたちを惑わし、福音を覆そうとします。あなたがたに告げ知らされた福音、あなたがたが受けた福音にしっかり立って、似て非なる福音に惑わされないように、覆されないように、目を覚まして、《キリストの恵みへと招いてくださった方》を仰ぎ見てまいりましょう。

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