日本キリスト教団 赤羽教会

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[礼拝説教]教会の告げる福音

大友英樹牧師
2019年9月8日
ガラテヤの信徒への手紙1章11-17節

  ガラテヤの手紙には、パウロの短い自叙伝があります。それはパウロがどのように福音を宣べ伝える使徒となったのか、そしてパウロが宣べ伝える律法によるのではなくて信仰による救いという福音は、どこから受けたのかということを明らかにするものです。11節で《兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません》と語りはじめます。わたしが宣べ伝える福音は、誰かから教えられたのではありません。それはどういうことかと言いますと、12節《わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです》というように、わたしが宣べ伝えている福音は、啓示による、つまり神さまからいただいた福音であると語っています。

ここでは少しく論争的なところがありますから、わたしは神さまから啓示を受けて、この福音をいただいたことを強調しています。Ⅰコリント15章で《わたしがあなたがたに伝えたことは、わたしも受けたことです》とありますから、例えばこの後に語られているようにエルサレムの教会の行ったときに、まったくイエスさまの福音を教えられなかったということはなかったでありましょう。しかしそれは少し時間が経ってから、3年後のことです。パウロがイエスの福音に出会った最初の時、そのときにまさに神さまの啓示を受けて、人から受けたのではなくて、神さまからの啓示によって、イエスさまの福音の中核となるものを受け取ったという信仰体験があるわけです。今日はこのパウロの回心の証しを通して、神さまがパウロを通して教えてくださる教会が告げる福音、そこにわたしたちクリスチャンが立っている福音ということを学びたいと思います。

 まず第1に教会が告げる福音は、イエス・キリストであるということです。もう一度12節をお読みします。《わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです》。聖書の信仰で大事なことは、人間が造ったのではないということです。パウロがこの福音は「人によるものではありません」、「人から受けたのでも教えられたのでもありません」と語るのは、そういうことです。聖書の信仰は人間の根拠をもつもの、人間に始まりをもつもの、人間がつくったものではありません。そうではなくて、福音というのは啓示による。啓示に根拠があり、啓示に始まりがあり、啓示がつくります。

この啓示というのは、隠されていたものが明らかになる。覆いが取り除かれるというような意味の言葉です。啓示とは神さまの御業です。わたししたちには神さまの御業は隠されています。覆いがかかっています。それをわたしたちが明らかにすることはできません。覆いを取り除くことはできません。神さまがその御業を明らかにしてくださいます。神さまが覆っていた神さまの御心を取り除かれます。啓示があって、はじめて神さまを知ります。パウロもそうでした。すでに神さまは、たとえば出エジプトの救いという啓示を与えてくださいました。十戒を与えて、契約を結ばれて、啓示を与えてくださいました。そのようにしてイスラエルの民は、出エジプトの救いを与えるところの神さま、わたしはあなたの神であるとご自身を明らかにする神さまに出会い、神の民として歩みはじます。パウロもそのイスラエルの民の一員でした。神さまの啓示が記されている聖書を学んでいました。しかも熱心に学んでいました。ユダヤの民は小学生にあたる年齢のときには、会堂に集まって聖書の勉強をしていました。それがユダヤの民の小学校です。パウロはその小学校を卒業して、さらに聖書を学ぶために、エルサレムに進学して、ガマリエルという教師のもとで学んだ聖書の専門家であります。それゆえに十字架に死んで、復活したというイエスをメシア、救い主と信じる者たちがいるということに憤りを感じたのでありましょう。さらにはその中でも、イエスを信じれば律法を守らないでも救われるというようなことを宣べ伝えていることに我慢がならなかった。そんな様子を13節からのこころで語ります。《あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました》。もちろん実際に教会を迫害しているときには、彼らは神に逆らっていると考えていましたから、神の教会などとは思ってもいませんでした。ところが使徒言行録9章にあるように、迫害の息を弾ませて、エルサレムからダマスコに向かって行く途中、神さまの啓示を受けることになります。そこには次のようにあります。《ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」》。パウロは強い光に照らされて、啓示の光に照らされて、3日間目が見えなくなり、祈りの内に過して、アナニアから祈ってもらって洗礼を受けてクリスチャンになります。そしてイエスさまを宣べ伝える使徒、伝道者に変えられます。パウロは啓示に出会う、イエスさまに出会ったのです。啓示はイエス・キリストです。十字架に死なれ、復活されたイエスさまが、パウロにご自身を啓示してくださった。パウロはそのとき、それまですべての聖書の学びがこの時のためだったことを知ります。わたしが学んできた聖書はイエス・キリストの十字架と復活を指し示している。イエスさまの啓示に出会ったとき、パウロはそれまでに聖書の学びを総動員するようにして、イエスさまの福音に捕えられました。そしてこのイエスさまの福音を宣べ伝えはじめます。

第2に教会が告げ知らせる福音は、神さまに選ばれた新しい人生です。人生観といってもいいでしょう。それはわたしの人生を支える根拠を見出すことです。パウロはイエスさまに出会って、新しい人生の根拠が与えられました。15節《しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき》とあります。ここにはイザヤとかエレミヤというような預言者たちが語っていることと重なる言葉があります。例えばエレミヤは預言者として立てられたとき、《わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた》とあります。パウロは「わたしはあのエレミヤのように、神さまが母の胎にあるときから選んでくださり、恵みによって召してくださった」と実感します。もちろんそれまでも、神さまがわたしを導かれている、わたしともに歩んでくださっているというような思いがあったでありましょう。一生懸命に神さまに従って行こうとしていたでありましょう。しかしパウロはイエスさまに出会って、はじめて自分の人生がわかります。わたしの人生の根拠がわかります。わたしがイエスさまを信じてクリスチャンとなったのは、神さまの選びであったのだ、神さまの恵みであり、神さまの召しであるのだという確信です。イエスさまの福音は、わたしの人生に肯定を与えます。「御心のままに」とありますが、これは神さまがわたしを選び、わたしを恵み、召したことを喜んでいるという意味合いがあります。神さまはあなたの人生はわたしの喜びである。神さまはあなたがイエスさまを信じて歩む人生は、わたしの喜びとするところです。このように言われます。統計によれば、日本人は諸外国に比較すると、自己肯定観が低いと言われます。わたしはこれでよいのだ。これで大丈夫だという自信がない。自分を肯定できない。それは信仰とかかわってくるのではないでしょうか。神さまがイエスさまを信じてクリスチャンとなるようにと、わたしを母の胎にあるときから選び分け、恵みによって召してくださり、今、そこのことを御心として喜んでくださっている。イエスさまの福音は、こういう新しい生き方をもたらします。

最後に教会が告げ知らせる福音は、イエスさまの内住です。イエスさまはわたしの内に住んでくださいます。16節から読んでみます。《御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした》。ダマスコ途上でイエスさまの啓示を受けて、洗礼を受けたパウロは異邦人に福音を告げ知らせる使命が与えられました。そして血肉に相談しないで、つまり誰にも相談しないで、エルサレムに行かず、アラビアに退きました。このアラビアはわたしたちが考えるようなアラビア地方ではなくて、ダマスコの南の方ということです。いずれにしてもそのアラビアでパウロは何をしたのか。異邦人に福音を告げ知らせたでありましょう。祈りをささげたでありましょう。自分のそれまでに聖書の知識を整理することもあったかもしれません。しかし大事なことは、そういう福音の伝道も、祈りも、聖書の学びも、「御子をわたしに示してくださった」という恵みからはじまることです。この御言葉は「神さまが御子をわたしの内に啓示してくださった」ということです。わたしの心の内にイエスさまを住まわせてくださった。わたしの頭ではなくて、わたしの心にイエスさまを啓示してくださいました。パウロはイエスさまの内住をいただいて、アラビアで異邦人に福音を宣べ伝え、祈り、聖書を学んで、再びダマスコに戻ってきました。

教会が告げる福音は、イエスさまという啓示に出会うこと、神さまに選ばれたこと、イエスさまが内住してくださること、この福音をあなたは握っているでしょうか。

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