日本キリスト教団 赤羽教会

日本キリスト教団 赤羽教会

<< 前週「」 | 「なぜキリストを信じるのか」 | 次週「」 >>

[礼拝説教]なぜキリストを信じるのか

大友英樹牧師
2019年12月1日
ガラテヤ2章15-21節

 

アンティオキアの教会にペトロが来て、異邦人と一緒に食事をしていたとき、エルサレム教会から割礼を受けている者、つまりユダヤ人のクリスチャンが来たときに、ペテロは異邦人と一緒に食事をすることから身を引こうとしました。それはパウロと一緒に伝道していたバルナバさえも引きずり込まれてしまいました。ユダヤの人々にとって、異邦人というのは神に選ばれた神の民ではない、律法を知らない神の民ではない、そうこともあって異邦人は罪人であると考えていました。ユダヤの人々は、自分たちには律法があるから、神に選ばれた神の民であるから、異邦人のような罪人ではないと考えていたわけです。パウロにはペトロが、そしてバルナバまでが異邦人と食事をすることから身を引こうとする様子に、面と向かって非難します。「あなたは福音の真理にのっとってまっすぐに歩いていないではないか」。福音の真理とは、わたしたちが救われるのは、ただイエス・キリストを信じるのみであって、律法プラス信仰によるのではないということです。教会の教理では、それは信仰によって義と認めていただく、信仰義認と呼ばれるものです。今日は教団信仰告白を告白しましたが、そこに「神は恵みをもてわれらを選び、ただキリストを信ずる信仰により、われらの罪を赦して義としたもう」とあるのが信仰義認の告白です。プロテスタント教会では、この信仰義認という教理は、教会が立ちもし、倒れもする条項と呼びます。そういう意味で、ガラテヤ2:16の御言葉は、たいへん重要な御言葉であります。今日はこの御言葉から、2つのことを学びたいと願っています。

まず第1は「わたしたちの信仰」ということです。16節の中ほどに《わたしたちもキリスト・イエスを信じました》とあります。この「わたしたち」とはだれのことでしょうか。パウロがペトロに非難の言葉を述べた14節は鍵カッコで書いてありますが、このときパウロが語った言葉は、この14節だけなのかという疑問があります。日本語には鍵カッコがありますが、ギリシア語にはありませんから、本当に14節だけなのかとは言えないところがあります。15節からところも、パウロが語っている非難の言葉が続いているとも読めなくはありません。実際に以前の新改訳聖書では、鍵カッコは14節~21節までになっています。パウロの言葉がどこまでであって、鍵カッコはどこにつけることができるのかというのは、小さなことではありません。もし鍵カッコが21節まで続いていると理解するならば、ここでパウロが語っている「わたしたち」というのは、《わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって》とありますから、このときアンティオキアの教会にいるパウロやペトロ、バルナバ、そしてエルサレムからやってきたユダヤ人のクリスチャンを指して、「わたしたち」ということになります。

しかし14節だけが鍵カッコであれば、15節の「わたしたち」はパウロも含めたユダヤ人のクリスチャンということになりますが、16節の「わたしたち」というパウロの御言葉は、ただユダヤ人のクリスチャンにのみではなくて、この手紙の宛先でありますガリラヤの諸教会に向けて語られる信仰の宣言というようなことになります。そうしますと、16節の「わたしたち」というのは、ユダヤ人のクリスチャン、ガラテヤの諸教会のクリスチャン、多くは異邦人のクリスチャン、さらにそれはもっと拡大して、今この聖書を読んでいるわたしたちをも含めた「わたしたち」ということになるわけです。それは信仰の宣言です。直接にはガラテヤの諸教会の人々の宛てている手紙ですから、ガラテヤのクリスチャンに向かって、「あなたがたはキリスト・イエスを信じました」、同じように《わたしたちもキリスト・イエスを信じた》という信仰の宣言です。時間的にはパウロの方がはやくイエスさまを信じて救われていましたが、パウロの伝道によってイエスさまを信じて救われたガラテヤのクリスチャンに、「あなたがたが信じたように、わたしたちも信じたのです」、「わたしたちは同じ信仰に立っているのです」、「同じ救いをいただいているのです」と語りかけます。そして代々のクリスチャンは、「わたしたちもキリスト・イエスを信じました」と信仰の告白をして、救われ、教会に、神の民に加えられていきます。「わたしたちも」というのは、強調された表現です。

キリスト教信仰というのは、個人の信仰ではありません。もちろん個人的にイエスさまを信じるということは大切です。また救いの経験ということも皆が同じということはもちろんありません。しかし自分独自のオリジナルな信仰というものはありません。イエスさまを信じるといっても、わたしはこのように信じると自分勝手なイエスさまを信じても、それはキリスト教信仰ではありませんし、救いをいただくこともできません。代々の教会が信じてきたように、「わたしたちもこのようにイエスさま信じました」というところに救いがもたらされ、キリスト教信仰に生きる者、クリスチャンとされていきます。大事なことは、「わたしたちも信じた」という2000年の代々の教会のクリスチャンが信じてきたことにつながることです。

次に二つめは「理解して信じる信仰」です。16節初めからお読みします《けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました》。なぜキリストを信じるのか、「鰯の頭も信心から」というようなことではなくて、どうして信じるのかという理由、その根拠が重大です。パウロはここで《ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、そして信じたと語っています。闇雲にではなくて、イエス・キリストは愛の人であるからというのではなく、こういう理由で信じるということが重要です。多くの日本人は「わが家は仏教です」というかもしれません。ではなぜ信じているのかと聞かれれば、こういう理由でと答えることがきるかといえば、必ずしもそうではないようです。しかしキリスト教信仰というのは、そういうことであってこまるわけです。聖書に《ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました》とあるように、「知って信じる」、「理解して信じる」ということです。

わたしたちの教会のホーリネス信仰のルーツは18世紀英国のジョン・ウェスレーの信仰に遡ります。ウェスレーはクリスチャンとして4つのことを大切にしました。それは聖書、代々の教会が何を信じてきたかという伝統、よく理解するということで理性、そして救いを実際に体験できるという4つのことです。一言でまとめれば、理解して信じるということです。聖書を読んでその内容を理解する。代々の教会の信じている信仰の内容を理解する。そして信じて、救いを体験するということです。ここでパウロが《わたしたちもキリスト・イエスを信じました》というのは、イエスさまがどういうお方であり、何をしてくださったのか、どうしてイエスさまを信じると救われるのか、そういう代々の教会が信じてきたことを知って、わたしたちも信じたのだと語っているわけです。

それでは何を理解して、信じたのでしょうか。ここでは3つのことを知って信じました。一つめは「律法の実行で救われるのではない」ということを知りました。律法というのは、パウロは聖なるものであって、正しいものと認めています。具体的には十戒というのも律法です。パウロは律法に「むさぼるな」と教えられていなければ、むさぼりが罪であるとはわからなかったと言っています。十戒の教えを通して、わたしたちは神さまのみこころを知ると同時に、わたしの罪ということを知らされるのです。「わたしの他に何者も神としてはならない」、「刻んだ像を拝んではならない」と教えられて、多神教の信仰や偶像崇拝が罪であることを知らされます。「殺してはならない」、「姦淫してはならない」、「盗んではならない」、「偽証してはならない」と教えられて、殺人の罪、性的な罪、窃盗の罪、偽りの罪、そうしたわたしの罪ということが教えられます。律法は正しいものですが、しかしかえって自分の罪というものが知らされます。ですから律法を実行しても、完全には実行しきれない。それゆえに律法の実行では救われないことを知ることです。

次に二つめは「イエス・キリストの信仰」を知ることです。《ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる》とありますが、この「イエス・キリストへの信仰」という御言葉には、2つの可能性があります。一つはわたしたちの聖書のように、「イエス・キリストへの信仰」、「イエス・キリストを信じる信仰」です。もう一つの可能性は「イエス・キリストの信仰によって義とされる」ということです。直訳すれば確かに「イエス・キリストの信仰によって」と書いてあります。新しく翻訳された聖書協会共同訳では「イエス・キリストの真実によって」と訳しています。この「イエス・キリストの信仰によって」とは、どういうことでしょうか。それはイエスさまが神のみ旨に従って人間としてお生まれくださり、律法によっては罪の自覚しか生じない罪と死の呪いの中にもがいているわたしたちのために、ゲツセマネの園でみこころがなされるように祈って、十字架にご自身をささげてくださり、3日目に復活してくださり、わたしたちの罪を贖いとり、罪と死の呪いから解放してくださった。そのイエスさまの父なる神に従順に従う信仰、イエスさまの本当の姿、真実な姿は、それは十字架へとご自身をささげられる真実な姿です。それがイエス・キリストの信仰です。このイエスさまの信仰、イエスさまがご自身をささげるという信仰がなければ、救いの道は開かれません。イエスさまが御自身をささげられたこと、神のみこころに従って十字架に死なれて贖いとなってくださったこと、そしてイエスさまが罪と死の呪いからの救いの道を開いてくださったこと、そういうイエス・キリストの信仰を知ることです。

そして三つめが「信仰による救い」を知ることです。「イエス・キリストの信仰」が、イエスさまがなしてくださったことであれば、わたしたちがなすべきことは、イエス・キリストを信じて、救いの恵みをいただくことです。イエスさまの十字架と復活は、わたしたちの罪を赦してくださり、罪と死の呪いから解放してくださり、神さまとの和解を与えられ、神さまとのふさわしい関係を結び者としてくださいました。このイエスさまを信じるときに、この救いの恵みが与えられる。このようにイエスさまを信じる信仰によって、神さまから義と認められると知って、《わたしたちもキリスト・イエスを信じました》。この「わたしたちも」の中にあなたも入っています。わたしも入っています。《わたしたちもキリスト・イエスを信じました》というこの御言葉は、今日ここに礼拝に集うわたしたちの告白です。

日本基督教団 赤羽教会
〒115-0042 東京都北区志茂2-56-4 TEL03-3901-8939 FAX03-3901-8990
このページは、自称赤羽web委員会(略してAWA)により作られています。