日本キリスト教団 赤羽教会

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[礼拝説教]キリストと共に

大友英樹牧師
2019年12月9日
ガラテヤ2章15-21節

パウロは理解して信じる信仰ということで、イエスさまの十字架と復活の御業がわたしを罪と死から解放する救いの御業であると知って、ただイエス・キリストを信じる信仰によって救われることを知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じましたと信仰の告白を語ります。この16節の《キリスト・イエスを信じました》ということは、過去のあの決定的なとき、わたしがイエスさまを信じたあのとき、そう信じたあの瞬間、わたしたちは救われましたということをあらわしています。具体的には洗礼を受けたとき、わたしはそのように信じて洗礼を受けましたということです。洗礼というのは、一度だけのものですから、わたしはあのとき、あの洗礼を受けたとき、イエスさまの十字架と復活を信じて、罪赦され、永遠の命を与えられて救われましたという救いの経験というものは、一回的な経験であります。「わたしはあのときイエスさまを信じて救われました」とはっきりと言い表すことは大切なことです。何年何月何日、何時何分に信じて救われたということでなくてもよろしいわけですが、少なくても自分が洗礼を受けたときに、あのときわたしがイエスさまを信じて救われたのですと言い得ること、これは大切な信仰の出発です。

パウロはこうした過去一回的な、決定的な救いの経験、「イエスさまがわたしの罪のために、わたしの身代わりに、十字架に死んでくださり、罪を赦してください、罪と死の呪いから解放してくださったということを信じました」という経験を語っています。それは「わたしのためにイエスさまが十字架に死んでくださった。わたしのために罪の贖いをしてくださった」という十字架経験です。パウロはそうした過去一回的な、決定的な救いの経験、わたしのための十字架を信じる経験を語った後に、今現在はどうなのかということを語りはじめます。それが19節からの箇所になります。

 パウロ自身の救いの経験から数えますと、このガラテヤの手紙が書かれた頃は20年ぐらい経過しています。この手紙が送られているガラテヤの教会の人々が救われたときから数えますと、ガラテヤの教会の人々は2~3年ほど前に救いの経験をしたということができます。パウロであればおよそ20年前、ガラテヤの教会の人々であれば、パウロの伝道による2~3年前、「わたしはこのように信じました」、「わたしたちも信じました」というように信仰を告白することになります。それではパウロであれば、それから20年後の今現在はどうなのか、ガラテヤの教会の人々であれば、2~3年後の今現在はどうなのか、わたしたちであれば、イエスさまを信じて洗礼を受けて救われたあの時から、今現在はどうなのかということです。3つのことを今日は確認したいと思います。

 まず第1に「わたしはキリストと共に十字架につけられています」ということです。19節《わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています》。この19節からのところには、「わたし」という言葉が繰り返しでてきます。特に19節の「わたし」と強調する意味でもちいられています。「わたし自身は」というように訳してもよろしい言葉になっています。ここではわたしは死んだのだと言っています。何に死んだのでしょうか。律法に死にました。それはどういうことかといえば、律法とは神さまの御旨ですから、聖なるものであり、正しいものでありますが、パウロも律法を守ることにおいては落ち度がなかったというほどに守ってきましたが、律法はいつもわたしに罪を明らかにする。救いではなくて罪を明らかにする。神さまは御子イエスさまをお送りくださって、律法ではなしえない、罪の贖いの御業をなしてくださいました。律法によっては救いはない。神に対して生きること、つまりイエスさまを信じて生きるところに救いがある。そのことを知って、わたしは信じて救われました。そういう信仰の告白です。そのときは先ほどお話ししたように、「わたしのためにイエスさまが十字架に死んでくださった」と信じました。それでは今現在はどうなっているのか。それは19節の御言葉です。《わたしは、キリストと共に十字架につけられています》。

 イエスさまの十字架には、わたしたちとの関係では2つの側面があります。一つは「わたしのために、わたしの身代わりに十字架に死んでくださいました」という「わたしのための十字架」です。それは客観的にわたしの前に立てられている十字架で、イエスさまはそこにわたしの罪のために十字架に死んでくださる、そういう「わたしのための十字架」です。

もう一つはこの19節が語るように「わたしと共なる十字架」、「「わたしが一緒につけられている十字架」です。聖書ではイエスさまと一緒に強盗が十字架にかけられたときに、この「共に十字架につけられる」という言葉が用いられています。それはイエスさまと並んで、時を同じくして、別の十字架にかかったという意味です。しかしここでパウロが語るのは、「イエスさまのあの十字架にわたしが共につけられている」ということです。これは聖霊なる神が時空を超えて、あの十字架にわたしが共につけられていたのだという聖霊によるところの経験、信仰の経験です。それは客観的なものではなくて、主観的なもので、「実はわたしがあのイエスさまの十字架に一緒につけられていたんだ」という深い聖霊による経験であります。しかしここに語られているのは、過去一回的なことではなくて、イエスさまを信じて、洗礼を受けて救われた、あの時から今に至るまで、ずっとわたしはイエスさまと共に十字架につけられています。それが今のわたしなのです。そういう信仰の告白です。わたしたちも同じです。わたしのために十字架に死んでくださったイエスさまを信じて、洗礼を受けて救われたあのとき以来、わたしはイエスさまと共に十字架につけられています。それが今のわたしなのです。

二つめは「キリストがわたしのうちに生きておられるのです」ということです。20節《生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです》。この20節の「わたし」も強調された表現です。このわたしの心を支配しているのは、もはやわたしではなく、キリストです。心の真ん中にある王座は座っているのは、わたしではありません。キリストがその王座に座してくださっています。わたしが生きているこの生涯は、キリストがわたしの主です。主権者です。わたしの導き手です。わたしの王なるお方です。キリストがわたしのうちに生きておられる。だからといって、わたしの意志がなくなるわけではありません。わたしの自由が奪われるのではありません。わたしの人生設計を立ててはいけないことではありません。大切なことは、わたしの内にキリストが住んでくださる。わたしのこころに内住してくださる。宿ってくださる。《キリストがわたしのうちに生きておられるのです》というのは、現在進行形です。これまでずっとわたしはキリストと共に十字架につけられてきました。それだけではなくて、今現在進行中なのは、キリストがわたしの内に住んでくださっているキリスト内住の現実です。

キャンパスクルセードの『四つの法則』という小冊子に、クリスチャンの心の中がどうなっているかという二つの絵が描かれています。心をあらわす丸い円の中に心の王座が置かれています。一つの絵には、キリストをあらわす十字架が心の中にありますが、その心の王座にはわたしが座っています。その心の中の秩序はバラバラになっています。しかしその心にはキリストは確かにおられます。もう一つの絵には、その心の王座に十字架が座っています。わたしはその王座の下に降りています。その心の秩序は整えられています。この二つの絵は何をわたしたちに教えているでしょうか。クリスチャンの心には確かにキリストが住んでくださいます。現在進行形でキリストはわたしの心に住んでくださっています。問題はどこに住んでいただくかということです。《生きているのはもはやわたしではありません》。わたしの心の王座はわたしのものではありません。《キリストがわたしのうちに生きておられるのです》。わたしの心の王座はキリストのものです。そこにキリストは住むことを願っておられますが、力づくでその王座を奪われるお方ではなりません。「イエスさま、わたしはあなたを王座にお迎かえします」とわたしが王座から降りるとき、キリストは住むべきところに住み続けてくださいます。

最後に3つは「わたしは、神の恵みを無にはしません」ということです。21節《わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます》。神の恵みは、キリストの死によってもたらされたものです。十字架の贖罪が神の恵みです。この神の恵みが注がれているからこそ、これまで「わたしはキリストと共に十字架につけられているクリスチャンでありました」、そして現在進行形では「わたしは心の王座にキリストを迎えて、キリストが内住していただいているクリスチャンであります」と信じることができます。だからわたしはこの神の恵みを無にはしません。それどころか無にはできません。神さまがそうしてくださった恵みなのですから、自分がどうこうすることができるようなものではありません。ただそれを受け入れるか、受け入れないかです。聖書は何と言っていますか。《わたしは、神の恵みを無にはしません》。これこそがクリスチャンの信仰の宣言です。実はこの神の恵み、わたしがキリストと共に十字架にかけられていることも、わたしの内にキリストが内住してくださることも、これが聖化の恵み、ホーリネスの恵みなのです。すでにクリスチャンであるわたしたちには、その神の恵みは与えられています。事実認定されています。大切ことは、ただその神の恵みを感謝して受け入れることです。信じることです。神の恵みを無にしないことです。

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