日本キリスト教団 赤羽教会

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[礼拝説教]「神の住まいとなる」

武石晃正伝道師
2019年12月29日
エフェソの信徒への手紙2章14-22節

はじめに
1.二つの物が一つに組み合わされる
2.現在は工事中である
  (あかし)
3.神の住まいとなる
おわりに

はじめに 

 「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行く方がよい。
 そこには、すべての人の終わりがあり、
 生きている者がそれを心に留めるようになるからだ」
                  (伝道者の書7章2節、新改訳第三版)
 聖書の中の知恵文学にはこのような言葉が記されています。

 日本では「一年の計は元旦にあり」と申しますが対義語が見つかりません。終わり良ければ総て良し、でしょうか。これでは収まりがよくありません。一方で私たち教会は、礼拝に始まり、礼拝に終わる一年であると言えましょう。
 終わりがあることへの意識づけはホーリネス信仰における四重の福音のうち、再臨信仰に通じる大切なことです。赤羽教会の週報左上には各々の礼拝について、始まりの時間だけでなく終わりの時間も明記されています。世の終わり、主のご再臨を待つ信仰の現れとしてふさわしいものだと思います。
 さて今日は年の終わりに際しまして、一年を締めくくる意味で教会聖句の箇所からみことばを取り次がせていただきます。「神の住まいとなる」と題しましたが、この箇所の中のいくつかの要素のうちまず2点を取り上げます。そして振り返りのお分ちを交えたのち、神の住まいとなることへと結んでまいります。

1.二つの物が一つに組み合わされる

 まず初めに、神の住まいは二つの物(14節)によって成るということです。この二つの物とはイスラエルと異邦人であり、その間に敵意という隔ての壁があったと書かれています。

 このイスラエルと異邦人との関係については、先行する11-13節において論じられています。そこでは「あなたがた」と呼ばれるエフェソの教会の人たちが、イスラエルの選びの前にあって異邦人に過ぎない者であったことが示されています。もともと選びと契約の外にあったにも関わらず、キリストの血によって近い者つまり同族とみなされるようになりました。

けれどもイスラエルと異邦人との間には敵意があったことが14節から分かります。これは当時の教会の内部で起こった実際の対立と取ることもできますが、旧約聖書において選民イスラエルの敵として描かれる異邦人の姿を思い起こすべきでしょう(エズラ・ネヘミヤ記)。単なる選民意識によるばかりでなく、数百年もの年月を実際に苦しめられ続けてきたわけですから、イスラエルの民が異邦人を受け入れるということは容易ではなかったに違いありません。

 しかし、キリストご自身がその血と(13節)ご自分の肉において(14)、敵対する両者を和解させ一つとなされたのです。このことを使徒パウロは「わたしたちの平和」(14節)と呼んでいます。ここで平和と訳されているギリシア語には調和という意味があります。同じく平和を意味するイスラエルの言葉(ヘブライ語)シャロームという語には、単に平和という意味だけでなく満ち満ちている様を言い表す含みを持っています。つまりキリストがもたらす平和すなわち十字架の贖いは、二つの者を取り持つだけでなく、隙間を満たし一つとし、全体を包んで完全なものとするに十分であるということです。

 この隔ての壁の存在について、イエス・キリストご自身も認めておられることが福音書の中から読み取ることができます。まず、キリストの直接の弟子たちも12人に限らずユダヤ人から取られていることです。異邦人への対応をイスラエル人である弟子たちとの間に一線を引いておられ(例、カナン人の女。マタイ15章24-28節)、またサマリヤの女と弟子たちとの間に入って立たれた場面も見られます(サマリヤの女、ヨハネ4章26節)。

 こうしてご自身がイスラエルと異邦人との間にある敵意のただ中に立たれたのです。右手と左手をそれぞれに延ばされた執り成しの姿を思い描いてみてください。かしらである方がこの二つのものの間にあって、一つの体として裂かれたのです。まさに十字架の上で磔にされたお姿です。そこで私たちのために尊い血潮を流されました。

 イスラエル人から罵声と呪いを浴びせられ、異邦人の兵士の槍に貫かれ、「二つの物」双方からの敵意を一身に受けられました。これこそ「十字架によって敵意を滅ぼされた」(16節)とパウロが言うところであり、私たちに伝えられた平和の福音(17節)なのです。

 ところで14節にある「隔ての壁」と訳されている言葉は、もともと間仕切となる壁を指す言葉ですが聖書ではこの箇所にしか見られません。建築の専門用語だったと思われます。パウロは「一つの体」と述べる時点で、20節以下に示される建物という概念が既に念頭にあったと言えましょう。

 ちょうど石造りやレンガ造りの建物において、二つの壁を上部でつなぎ合わせるアーチ構造のイメージです。それぞれの壁は対立するようにそびえ立ち、その間には間仕切りあるいは仮組の枠が組まれています。左右の壁の上で互いに向き合ってぶつかるところ、そのちょうど真ん中に楔型の石すなわち“かなめ石”(20節)が組み込まれます。

 このかしら石ともかなめ石、キーストーンとも呼ばれる石が打ち込まれると、相対していた二つの壁は一体としてつなぎ合わされるのです。このアーチ構造が完成すると、仮組の枠は不要となって取り壊されます。

 そしてアーチ構造によってしっかりと結ばれてそびえ立つ二つの壁、それぞれを支えているのは施工当初から据え置かれて揺るぎない土台の石です。かなめ石であるキリストご自身を頂点にいただいて完成する一対の壁、その土台こそ神から召された「使徒や預言者」だというわけです(20節)。

 壁が伸びている分だけ数多くの石は土台として据えられますが、この土台という単語は単数形で書かれています。すなわち後から追加発注で増築したのではなく、最初の設計の時点から一つとなるように計画されていることを意味します。

 またこの土台ということばは、様々な不安を抱いていた当時の教会にとって慰めとなったことでしょう。キリストの福音、その平和の約束が、行く先々へと移ろいゆく天幕のようなものではなく、礎を据えて揺るぐことがない確かなものであるからです。

 このように神の住まいとして示されるものは、イスラエルと異邦人という二つのもの(壁)から一つとされて立つのです。そのうち私たちは異邦人の側にあり、中心かつ頂点におられるキリストご自身によって平和と調和に与っています。そして私たちが立っている確かな土台は使徒と預言者であり、言い換えれば旧約新約の両方からなる一つの聖書のことばなのです。

2.現在は工事中である

 揺るぎない土台の上に立てられ、キリストご自身がかなめ石として完成するということであれば、もはやこの建物について後から加えていただくことはできないのでしょうか。

 いいえ、土台は既に据えられていますが、幸いにも現在はまだ工事中であることがわかります。「組み合わされて成長し」(21節)「あなたがたも共に建てられ」「神の住まいとなる」(22節)とあるからです。組み合わされて成長する、と現在進行形で書かれています。

 いつからどの部分が進行形なのでしょうか?

 主イエスご自身が預言者はヨハネまでであるとバプテスマのヨハネを示して語っており(ルカ16章16節)、彼の出現を以って時が満ちた(マルコ1章15節)と福音書には記されています。預言者の土台の上に積まれたイスラエルの側については、この時点で備えが満ちたと言えましょう。そしてキリストご自身が十字架上で「成し遂げられた(完成した)」(ヨハネ19章30節)と宣言されました。高く掲げられた方が彼らのかしら石となられたのです。

 ここから事前に使徒たちへ宣言されていた「この岩の上に教会を建てる」(マタイ16章15節)という次なる働きが開始されたのです。この工事は主が再び天より世に来られ、イスラエルと異邦人との間のかなめ石となられる時まで続きます。私たちはこの完成、主のご再臨に希望をおいているのです。

 完成の時までは教会も、一人一人も工事中。お互いに欠けを補い合いながら成長します。イスラエルとの間の間仕切りが残っているのかもしれませんが、私たちは異邦人であったのに神の家に属する者とされたのです(19節)。互いに垣根を作る必要はありません。

<振り返りとお分ち>

 この工事中であるということについては、説教者である武石自身もまた同じく未完成であり不完全なものに過ぎません。主の召しをいただき、それに応え、憐みによって立たせていただいています。
 今年は4月より本当に急な招聘をしていただき、赤羽教会の信仰深さ懐の深さに助けていただきました。一年を振り返られるような立場のまま、こうして過ごさせていただきました。お祈りとお支えをありがとうございます。
 昨年と本年、あるいは昨年度と今年度を比べて振り返りますと、一番大きな違いは住まいと身分が落ち着いたということです。昨年度中は転居が3度あり、置かれている身分や立場も2度3度と変わりました。頭で理解している以上にストレスを受けていたようです。
 教会の皆さん特に役員の皆さんには、全くの初対面だったにもかかわらず受け入れていただいたことをありがたく覚えています。おかげさまで早くからこの地に安心して住まわせていただき、伝道師としても地に足をつけることができました。

 住まいと立場が落ち着いて、初めて自分自身の心と向き合うことができるようになりました。昨年のうちにどれほど心にダメージを負っていたのかに気づくところに始まり、傷跡として数多く残っていることが分かりました。他人から受けた傷もあれば、自分の罪の痕跡もありました。こうしてホーリネス信仰である四重の福音のうち「神癒」について身をもって受け止められるようになってきました。
 この1年も大きな病気をせずに守られたことも神癒の恵みの一つですが、癒されなければならない傷があることを知ったのはとても大きな恵みでした。この建物の中に住んでいるという意味ではなく、神の住まいであり神の家族とされた教会の中にしっかりとつながっているからできたことだと思います。そしてそれは、自分自身の力によるのではなく、神様が一緒に見ていてくださると知っているから安心してできたことです。
 自分の内面に向き合うことは安心できる場にないと難しいのだと思います。自分に向き合えると神様にも真っ直ぐ向けるようになります。祈りに以前より手ごたえを掴んできていると感じます。恥ずかしいことですが、赤羽教会へ来てから祈ることの手ごたえ、祈られていることの手ごたえを具体的に体感できるようになりました。それまでは身を置いて腰を据えて祈るということができなかったせいだと思います。

 教会が神の家族であるばかりか神の住まいであることに感謝します。病気やけがの治療は病院で受けられますが、治療が済めば家で快復することになります。教会で新生の恵みときよめの恵みに与っても、「退院」させられてしまっては自分ではどうすることもできません。癒しの恵み、神癒の恵みに与ることができる神の住まいに、こうして皆さんと一緒に加えていただいた一年を感謝します。

3.神の住まいとなる

 さて、最後に神の住まいとなるとはどういうことか、短くまとめてみたいと思います。

 まず、エルサレム神殿には神様が実際に住んでおられたわけではありません。神様を被造物世界の中にお納めすることはできないと神殿を建てたソロモン自身が告白しています(列王上8:27、歴代下6:18)。ですから神様が住む、住まうという語は象徴的あるいは比喩的なものだと言えましょう。神の子イエス・キリストも祭司として神殿に住んでいたことはなく、至聖所に入ったという記述も見当たりません。
 一方で聖書の最後の書物であるヨハネの黙示録には7つの教会へ宛てたメッセージがされています。その一つであるラオディキアの教会へ「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている」(黙3:20)と語られています。そして戸を開けるなら、主が入ってその者と食事をするとの約束が与えられています。

 この箇所はしばしば伝道集会などで未信者の方へ向けて、キリストを心に受け入れるための勧めとして用いられることがあります。しかし、よく目を凝らして読むと、教会に対しての言葉であることが分かります。つまり主は教会から追い出されて扉にかんぬきがかけられ、人々は誰ひとり主が教会の中におられないことに気づいていないのです。
 主が中におられない教会を神の住まいと呼ぶことができますか?主がおられないことに気づかない集団を神の家族と言うことができますか?これは昔のラオディキアにある教会だけの問題ではないかもしれません。いつの時代のどこの国でも起こりうるので、聖書に書き残されているのだと思います。
お客様としてお迎えするのではなく、ずっと住んでいただくので神の住まいと呼ばれます。それは教会だけでなく、そこに連なる私たち一人一人にも当てはまります。

 この一年を振り返り、私たちは教会の家族の中で守られて、大小かかわらず多くの助けをいただきました。その背後にある主のみわざ、ご臨在をいつも覚えて感謝します。
 私たちは日曜日の礼拝だけでなく水曜日にも祈祷会として主を覚えて集いました。そのほかの日も早天祈祷会や、それぞれの家や職場で祈りと御言葉の時間を続けて参りました。10月のオープンチャーチにおいては連鎖祈祷として祈りの鎖を紡ぐことができたことも感謝します。
 来週から教会聖句が新しくなりますが、私たちが明日から急に「聖なる神に属する者、神の家族」でなくなるわけではありません。これからもずっと神の家族です。

「キリストによって、一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです」(18節)。
「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです」(22節)
 この働きは三位一体のみわざであり、父、子、聖霊によってバプテスマを受けた人々に与えられた特別な約束です。

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