[礼拝説教]2021年3月14日聖日礼拝順序 受難節第4聖日
2021年3月14聖日礼拝順序 受難節第4聖日
1. 黙祷
2.招詞 詩編120:1
3.頌栄 60(YouTubeまたは「MP3&詞 聖歌・讃美歌」で検索してください)
4.新聖歌 170(YouTubeまたは「MP3&詞 聖歌・讃美歌」で検索してください)
5.詩編交読 詩編145:1~13
6.祈り
7.新聖歌 115(YouTubeまたは「MP3&詞 聖歌・讃美歌」で検索してください)
8.主の祈り
9.使徒信条
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへり。かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん。
我は聖霊を信ず。
聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがへり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン
10.ワーシップソング 父の涙(YouTubeで検索してください)
11.教会聖句 Ⅱコリント5章18節
12.聖書 マタイ26:36~46
13.説教 『ゲツセマネの祈り』(声に出して朗読してください)
私たちは今、レント、受難節のときを過ごしています。聖書が最も大事なこととして、イエス・キリストが十字架で死なれたこと、3日目に復活されたことと語っていますが、その聖書が証しする神さまの救いの中心的なときを過ごしています。イースターまでの礼拝では、イエスさまの受難、十字架の受難を取り上げていきたいと思っています。今日はイエスさまがゲツセマネの園で祈られたところになります。
エルサレムの神殿から南西方向に少しいったところで、イエスさまと弟子たちの最後の晩餐が行われた2階座敷があります。そこでの過越の食事を終えて、イエスさまと弟子たちはエルサレムの東側にあるキドロンの谷を越えてゲツセマネの園と呼ばれるオリーブの木々の園に行きました。そこはルカ福音書によると、いつもの場所であったということです。イエスさまはゲツセマネの園があるオリーブ山の向こう側のベタニアの町に宿泊していたとありますから、ゲツセマネの園はいつもの通り道であったのでありましょう。いつもの場所でお祈りをされます。それがゲツセマネの祈りです。
イエスさまは弟子たちの中から、ペトロとヤコブとヨハネの三人を伴っていつもの祈りの場所に行きます。この三人は、マタイ福音書17章でイエスさまが山で祈っていた時に、イエスさまの姿が変わり、衣が白く輝いて、そこにモーセとエリヤが現れてイエスさまと語り合っていたところに居合わせた弟子たちでした。ルカ福音書ではモーセとエリヤが《イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた》とあります。そんな経験がある3人を連れてイエスさまはゲツセマネの園で祈り始めます。そのときのイエスさまのお気持ちが語られています。37節に《悲しみもだえ始められた》とあって、38節に《「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」》と語られています。新しい聖書協会共同訳では「苦しみ悩み始めた」、「わたしは死ぬほどに苦しい」と訳されています。悲しみ苦しむということですから、悲嘆とか悲痛というようなお気持ちでありました。そのお気持ちが祈りの言葉にあらわされます。39節《父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに》。この杯とは十字架の死を意味していることがいうまでもありません。この十字架をわたしから過ぎ去らせてください。十字架を前にして、「わたしは死ぬばかりに悲しい、苦しいのです。できることなら、これを過ぎ去らせてください」。それがイエスさまのゲツセマネの祈りです。
イエスさまは御自分がなぜこの世にお生まれになったのか。なぜ神の身分であられながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わないで、人間と同じ者になられたのかを御存じであられます。マタイ福音書では16章でペトロがイエスさまに「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰を告白したとき、その告白の上にわたしの教会を建てようと約束してくださいました。そしてその告白がなされたときから、聖書には次のように語られています。《このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた》。この後、さらに2度にわたって、「わたしは十字架の苦しみを受けて死に、3日目に復活すると予告しておられます。さらには十字架に死なれる直前、エルサレムに入城しようとする前に、《人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように》とも言われました。このようにイエスさまは御自分がなぜこの世にお生まれになったのか。何をされるために神であるお方が人となられたのかを御存じであります。まさにその時がやってきました。モーセとエリヤと語らったエルサレムで遂げようとしている最期のときを迎えようとしています。しかしながら、イエスさまは悲しみ苦しみもだえ始めます。
イエスさまが30歳ごろ、神の国の福音を宣べ伝える公の生涯に入られたとき、荒れ野で悪魔から誘惑を受けられたとあります。そこには《神の子なら、この石をパンになるように命じたらどうだ》と誘惑されたとあります。神の子ならできるであろうということです。実際、イエスさまがそうした誘惑を受けられたということは、それができるお方だからです。わたしたちにはできませんから、それは誘惑にはなりまでん。しかしイエスさまは神の子でありますから、それがおできになる。それゆえに誘惑されます。ゲツセマネの園で祈るイエスさまが神の子であれば、そのお生まれになった目的であり、成し遂げるべき最期の十字架の死を前にして、恐れおののき、悲しみ苦しむことはなかったでありましょう。しかしイエスさまは神であられるお方が人となられたお方であります。まことに神であられ、まことに人であられるイエスさまは、その人間として、罪は犯されませんでしたが、私たちと同じ経験をされる人間として、今ゲツセマネの園で祈っています。神であられるお方、そして人であられるお方であるゆえに、イエスさまにしか経験できない、負いきれない独特な悲しみもだえ、苦しみ悩むのであります。神であられるお方と人であられるイエスさまの独特な苦悩の祈りです。
イエスさまは2つのことを祈りました。一つめは39節です。《父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに》。イエスさまは3回繰り返してお祈りされますが、それほどまでに熱心に祈られたのです。繰り返し祈ることは、「この杯を過ぎ去らせてください」とことです。ゲツセマネの祈りは、マルコ福音書とルカ福音書にもありますが、祈っている言葉が違います。意味としては同じことですが、マルコとルカは「取り去ってください」となっています。マタイはおそらくマルコが《できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り》とあるところから、イエスさまの祈りの言葉を「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」としかのかもしれません。いずれにしても、マタイ福音書はイエスさまが「この杯を過ぎ去らせてください」と繰り返し祈られたと語ります。
過越の祭りを迎えようとしているときです。マタイはユダヤ人キリスト者に向けて福音書を記したとも言われるように、人々がこの福音書を読むときにイエスさまの祈り、「この杯を過ぎ去らせてください」という祈りは過越の祭り、過越の小羊と重なりあいます。かつて出エジプト記にあるように、イスラエルの民が出エジプトの救いをいただくとき、エジプト中の初子が撃たれたその夜、過越の小羊の血が門に塗られ家は過ぎ越されました。イエスさまが祈るのは、「わたしではなくて、他の過越の小羊がささげられて、過ぎ去らせてください、過越してください」という祈りです。新しい出エジプトの救いのために、全人類の贖いとして十字架の死を引き受けられて、わたしを過越の小羊としてささげるしかないのでしょうか。そうした神であるお方としては、御自身がこの世にお生まれになられた目的を果たさなければならない救いの使命と人であるお方としては受難を前にしての恐れおののく、独特な悲しみ苦しみがあります。「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」。わたしが過越の小羊にならなければならないのですかという、イエスさまの独特な苦悩の祈りです。
もう一つの祈りは42節です。《更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」》。イエスさまは「あなたの御心が行われますように」と祈ります。自らがこの世に来られた神の子の使命を果たさなければならない、しかし人の子としては「杯を過ぎ去らせてください」と過越の小羊となることに苦悩し、悩み、恐れおののくイエスさまの独特な苦悩の祈りがささげられる。その祈りの中でもう一つ繰り返される祈りが「あなたの御心が行われますように」であります。
この祈りはマタイ福音書の教える主の祈りとまったく同じです。主の祈りはマタイとルカ福音書に教えられていますが、この祈りの言葉はマタイにしかありません。イエスさまは弟子たちが祈ることを教えてくださいということで、主の祈りをお教えになりました。「あなたの御心が行われますように、天においても、地においても」。イエスさまは神さまの御心が行き渡っている天からこの地に来てくださいました。神さまの御心が全うされている天に比べるならば、なんと地は神さまの御心をないがしろにしていることでしょうか。その現実が罪の蔓延です。神さまの御心に従わざる人間の罪が蔓延している。イエスさまはその地に神さまの御心を明らかにするためにおいでくださいました。それが神の国の福音です。神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい。そして山上の説教を教えてください、新しい律法を授けてくださいました。またこのように祈りなさいと主の祈りを教えてくださいました。それはすべて神さまの御心を明らかにするためであります。このゲツセマネの園で、人の子は多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たと仰せになった十字架の贖いの死を前にして、悲しみもだえ、苦しみ悩むイエスさまが祈られます。このイエスさまのエルサレムで遂げようとして最期のときを迎えて、悲しみもだえ、悩み苦しむイエスさまが祈られます。「あなたの御心が行われますように、天においても、地においても」。弟子たちに教えられた祈りを身をもって実践されます。イエスさまはゲツセマネの祈りによって、神さまの御心として十字架の死へと向かうために立ち上がってくださいました。
イエスさまは簡単に十字架に死なれたのではありません。イエスさまはゲツセマネの祈りによって、最後には《立て、行こう》と自らこんなにも大きな、そして重い十字架の贖いの死の決意を、献身をしてくださいました。ゲツセマネの祈りなしに、神さまの御心であるイエスさまの十字架は果たされませんでした。イエスさまが祈って、神さまの御心を信じて、献身して、十字架に死んでくださいました。イエスさまのゲツセマネの祈りの苦闘を忘れることはできません。
(応答の祈りをしてください)
14.献金(後日、礼拝に来られた時に献金してください。教会の口座に送金することもできます)
讃美 新聖歌 105(YouTubeまたは「MP3&詞 聖歌・讃美歌」で検索してください)
15.感謝の祈り
16.報告
①先週集会 礼拝46名(HP・メール・faxの方を含む)
聖書研究祈祷会 牧師のみ
②今週の予定16日:赤羽朝祷会(休会)
17日:聖書研究祈祷会(休会・各自で祈りをあわせましょう)
19日:日本ケズィックコンベンション委員会
20日:ライフライン(8時・テレビ埼玉)
③教会便り ・ユースにお勧め賛美動画「父の涙」
・メールやファックスでの礼拝人数は把握できますが、HPでの人数が把握できませんので、お手数ですがメールで「HPで礼拝しました」と送信してください。
メール pastor@akabanechurch.jp fax 03-3901-8990
・先週献金くださった方の献金は、本日の礼拝でささげます
・会堂掃除(礼拝後・土曜日):礼拝後は〈掃除機〉と〈除菌拭き取り〉、土曜日はしばらくお休みします。
・4月4日まで10時からの合同礼拝となっています。HPやファックス配信も用いてください。本日の教会役員会で今後のことを決定します。
・水曜日の聖書研究祈祷会はしばらく休会となりますので、各家庭で時を覚えてお祈りください。
・3/28(日)、礼拝の説教者に森下研神学生を迎えます。4月から任地に派遣されるので、祈りをもって送り出しましょう。
④次週予告 ・7時:早朝礼拝
・9時 30分:第1礼拝 合同礼拝に合流
・10時00分:合同礼拝 説教)大友師
・礼拝以外の集会は休会となります
17.頌栄 新聖歌63(YouTubeまたは「MP3&詞 聖歌・讃美歌」で検索してください)
18.祝祷
主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同の上、豊かにあるように アーメン