日本キリスト教団 赤羽教会

日本キリスト教団 赤羽教会

ホーリネスって何?

ホーリネスの信仰

赤羽教会は日本キリスト教団の中の「ホーリネスの群」というグループに属しています。もともとホーリネスの伝統は中田重治という方にまでさかのぼります。もちろん、中田重治の運動の原点は英国のジョン・ウエスレーにまでさかのぼることになります。その中田重治は青山学院大学神学部を卒業後、牧師としての働きをしていましたが、更に深い霊的な体験を求めて米国に渡りました。シカゴのムーディ聖書学院で学んでいる時に、A.B.シンプソンの「四重の福音」に出会います。当時、米国はリバイバルの霊的な動きがあったので、彼は「これが自分の求めていたものだ!」と確信し、帰国します。そして、神田神保町に伝道館を作って伝道を始めました。1901年のことです。中田重治の強烈な個性と霊的資質は多くの人をひきつけて、ホーリネス運動は燎原の火のように日本中を席けんします。中田重治の説いた教説は純粋な聖書信仰であり、それは「四重の福音」という形で語られました。「四重の福音」すなわち、「新生」「聖化」「神癒」「再臨」という神学的な救済論を展開したものです。簡潔に説明すると

  1. 新生=人はイエスキリストを信じる信仰によって、新しい命に入るというもの。
  2. 聖化=人は信仰によって義とせられ、救いを得るが、罪をきよめられ、キリストと同じ姿に変えられて行くという信仰。
  3. 神癒=人は主イエスを信じるときに、霊肉ともに健やかにされるというもの。
  4. 再臨=世の終わりにイエスキリストは再び来られるという信仰。

新生・「あたらしい命」詩編51編から (2002年6月9日深谷春男師説教より)

【 はじめに 】6月は、ホーリネスの群の教会ではその歴史的伝統を覚えつつ、特にその強調の主題である「四重の福音」すなわち、「新生」「聖化」「神癒」「再臨」という内容について学ぼうという提案があり、わたしたちの教会でもここ数年、それを学んでいる。今日は「新生」、次回は「聖化」という具合に、6月の聖日礼拝説教でそれをとりあげたい。今日はまず、「新生」という内容を取り上げる。これは先週の金子益雄先生も「新生の喜び」と題して説教されたように、キリスト教信仰の根幹となるものである。これはホーリネス系の教会のみならず、伝統的プロテスタント教会の基本的な信仰告白である。重要な聖書箇所はたくさんあるが、まず、3つ上げておこう。

  • だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。(Ⅱコリント5:17)
  • イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ福音書3:3)。
  • 神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。(詩編51:12)

以上、今日は、キリストにあって「わたしの内に清い心を創造し」、「新しく確かな霊を授け」給え、という内容を考えたい。

【 詩編第51編の概略と区分 】

本詩は7つの悔い改めの詩(6、32、38、51、102、130、143編)の第4番目の詩。特に3―4節は「罪と赦しに関わるヘブライ語彙の宝庫」(シュツールミュラー)と言われる。

  • 1― 2節 表題:ダビデがバト・シェバと通じた後預言者ナタンが来た時に。
  • 3― 4節 導入:神の憐れみと罪の清めを求める。
  • 5― 8節 罪の告白:わたしの罪は常にわが前に。母の胎内から罪に染んで。
  • 9―11節 罪の許しと清めを求める:雪よりも白くなし給え。
  • 12―14節 霊的刷新への祈り:新しく確かな霊、聖なる霊、自由の霊を。
  • 15―19節 感謝の誓い:証しと賛美の誓い、いけにえは砕けた悔いた心。
  • 20―21節 典礼的付加:エルサレムの城壁の再建への祈り。

【メッセージのポイント】

  1. 新生は「認罪の意識」に始まる!
  2. 「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく、あなたの裁きに誤りはありません。」(6節)
    人間の生涯には誰でも、「あのこと!」と思い起こすような「罪の思い出」があるのではないだろうか?旧約のイスラエルの王、救国の英雄であったダビデも、その生涯に一つの汚点があった。即ち、バト・シェバとの姦淫事件である。彼はこの事件を起して、その罪を隠そうとしてバト・シェバの夫、忠実な自分の部下であったウリヤを謀殺した。彼は姦淫、殺人、偽証の罪を重ねた。しかし、ここで注目したいのは「あなたに、あなたのみに、罪を犯し」と告白していることである。罪とは本質的に神との関係のことである。

  3. 新生は「罪の許し」の体験である!
  4. 神よ、わたしを憐れんでください 御慈しみをもって。深い御憐れみをもって
    背きの罪をぬぐってください。(3節)
    「新生は罪の許しの体験である」。キリスト教信仰は十字架の主イエスを見上げ、自分のためになされた身代わりの業、贖罪のみ業を信じることである。神の子羊、主イエスの十字架の血潮による以外に救いはない。

  5. 新生は「罪のきよめ」の体験である!
  6. 「ヒソプの枝でわたしに罪を払ってください。わたしが清くなるように。わたしを洗ってください、雪よりも白くなるように。」(9節)
    彼は預言者ナタンに指摘されて、自分の罪を直視した時、神の御前に罪を告白し、「雪よりも白くしてください」と祈っている。「雪よりも白く」とは何という大胆な信仰なのでしょう。でも、これは信仰者の偽らざる祈りである。「御子イエスの血、すべての罪よりわれらを清む」(Ⅰヨハネ1:7)。昔は汚れをヒソプという植物で清める儀式を行なった。しかし、今は主イエスの十字架で流された血潮によって我等は罪許され、清められて行く。「たといあなたがたの罪が緋のように赤くあっても雪のように白くなるのだ。」(イザヤ1:18)

  7. 新生とは「聖霊による刷新」である!
  8. 「神よわたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。」(12節) ここには神の霊(ルーアッハ)によって新しくされるという信仰がある。「清い心を創造し」の「創造」は「バーラー」という創世記1章の天地創造の際に使われた言葉が使用される。この語は神のみが主語となる。即ち、「神よ、わたしの罪を赦し、わたしの内に清い心を創造し、神の霊によって、まったく新しい人生を作ってください」という祈りがここにはある。「新しく確かな霊」、「聖なる霊」、「自由の霊」の満たしによる新しい人生を希求している。

  9. 新生とは「砕けし、悔いし心」を持つことである!
  10. 「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」(19節)
    更にこの詩の最後は「真のいけにえは動物犠牲でなく、砕けたる魂」なのだと宣言して締めくくる。わたしどもに大切なのは自分の義に頼らず、砕かれた心で御前に立つこと。

【 結論 】

新生の体験とは、まず、罪を認め、悔い改め、罪の許しと清めを経験し、霊的に新たに創造される経験をし、砕けた悔いた心で主の御前に出ることである。砕かれた魂で主に立ち返るその時が、生涯で最も尊い。 ハレルヤ!

聖化・「栄光から栄光へと」Ⅱコリント3:12~18(2002年6月16日深谷美歌子説教より)

聖化について

  • 18世紀
  • 18世紀の英国国教会の牧師であったウエスレー師は、クリスチャンの信仰生活は「生きる限り罪を犯さざるを得ない」ものだという認識をしている人々に対して、そうではない「罪を犯さないでいられる」、別の言葉で「聖化」が聖書の伝えるところであると、この恵みを強調しました。私たちの教会はこの流れの中に在ります。ウエスレー師の伝えた「聖化」については、別紙を参考に、もっと深く知りたい方は「キリスト者の完全」などを御覧になってください。
    本日はこの恵みをともにいただくときとなりますように。

テキストの概要

コリント信徒への第二の手紙は、パウロのコリント教会への愛に満ちた「涙の手紙」と言われています。今日の説教箇所であります第3章は新共同訳では「新しい契約の奉仕者」という解説が付いています。ここでは神様がモーセを通してイスラエルに与えられた「古い契約」と、イエスキリストを通して教会に与えられた「新しい契約」の対比をしながら、新しい契約に生きるわたしたちのすばらしさを伝えています。モーセがいただいて伝えた文字(十戒)は、神の民の有り様を示すもので「つかのまの栄光」でした。これは罪を宣告するもの、死を宣告するものでした。それは、やがて来る新約の栄光の前に消え去るものでした。しかしキリストを知ろうとしない者はいまだ古い契約を汲々と守ることによって救われるとしか思えないのです。

キリストに向く(信じた)ものは、先週学んだ「新生」(罪の赦しと新生)をいただき、「永続する栄光」に仕えるものとなりました。聖霊が働かれる時、主を映し出します。しかも栄光から栄光へと、主の姿に造りかえられ続けるのです。

  1. 現在の確信と栄光を現わす。
  2. 「確信に満ちあふれてふるまっており」12節
    「鏡のように主の栄光を映し出しながら」18節
    クリスチャンライフは主の栄光を見せるものだとパウロは語っています。そこには確信に満ちあふれた信仰者の姿があります。わたし自身の信仰生活を振り返ると、良い模範のクリスチャンでありたいと願いつつ、実際に攻撃や、怠慢心が起こってくるとそれに敗北する、愛の人でありたいのに、赦せなかったりという経験を繰り返しました。パウロの勝利の姿は特別な恵まれた人のように思えました。しかしわたしたちとあり、特別でなくごく当たり前のこととしてパウロは書いています。

  3. どうしたら日々確信と勝利に生きられるか。
  4. 「主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。」16節
    「ここでいう主とは”霊”のことですが」17節
    パウロの確信はどうしたら得られるのでしょうか?主の方に向くのだとあります。旧約を超えて、完全な救いをもたらして下さった主に向くのです。そして今は聖霊なる神として御臨在しておられる神様に心を向けるのだと。Ⅰコリント3:1―3の箇所でパウロは二種類のクリスチャンのことを挙げています。図参照。旧約時代はこの罪の人間の姿を映し出し、動物による一時的な解決しか与えることが出来ませんでした。しかし今は、イエスキリストの贖いの命をいただいた上で聖霊なる神様に聞き、依り頼む時、罪に勝利する生活に入れられたのだと言っています。

  5. 何を目指すのか
  6. 「栄光から栄光へと主と同じ姿に造りかえられていきます。」18節
    「聖化」とは主の姿そのものです。主は完全な愛を現してくださいました。与えつくし、仕え尽くしてくださいました。父なる神の御旨を完全に遂行されたのです。キリスト者の完全の中で「絶えず神に向かって上へ上へと流れつつある」者だと表現されていますが、わたしたちが聖化されるというとき、この主イエスと同じ姿になることです。それは神を愛しその御旨に従うことです。

結び

今日本はワールドカップの真っ最中です。日本中が選手の一挙手一投足に注目し、声援を送っています。
彼等はこの日のために辛い訓練の日々を進んで受け、試合に臨んでいます。監督とリーダーの指令塔のもとに一致して戦いを進めます。彼等は国の名誉をかけて闘っています。力いっぱいの彼等の姿は胸を打ちます。主の戦いに自分を捧げる器を主は求めておられます。自分を捨て自分の十字架を負い神の国建設に捧げる弟子となるものを。終わりの勝利の栄冠を得るものは誰か?   ハレルヤ!

神癒・「神のいやしを信じる」ヤコブ書5:7~18(2002年6月23日大友英樹牧師説教より)

《信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます》(15節)
 ヤコブの手紙は、信仰者への勧告の言葉に満ちています。今日のテキストは、《主が来られるときまで忍耐しなさい》という勧告から始まります。忍耐の人として、ヨブが取り上げられています。旧約聖書のヨブ記を読みますと、ヨブは無垢な正しい人で、神を畏れ、悪から遠ざかっていた人であったとあります。そのヨブが家族が奪われたり、重い皮膚病になって、たいへんな苦しみを経験します。11節に《あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています》とあるように、最後にはヨブは神の祝福をいただいたことが記されています。ヨブはただ忍耐してそのときを過ごしたのではありません。ヨブ記によればヨブが苦しみから解放されて、神の祝福をいただくことになったのは、ヨブが神に出会うという経験をしたことにあります。ヨブは忍耐する中で、神に本当に出会ったと言っていいかもしれません。ヨブは無垢な正しい、神を畏れる人でした。しかし苦しみに耐える中で、本当に神の前にひれふすことを知ったのです。
 私たちが忍耐する苦しみは、千差万別です。様々なことのなかで、病気ということは共通のものであろうと思います。それは風邪をひく程度のことであったとしても、私たちは苦しみを感じるものです。聖書は病気のいやしということが多く記されています。それは今も昔も病気が人々を苦しめるものであることを物語っているのかもしれません。そして聖書は神は病気をいやすお方であると語ります。出エジプト記15章には、《わたしはあなたをいやす主である》とあります。詩篇103編には、《主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し、命の墓から贖い出してくださる》ともあります。そして福音書には、イエス・キリストが多くの病気をいやされたことが記されていますし、使徒たちもまたいやしの働きをしたことが使徒言行録には記されています。そしてヨハネの手紙Ⅲでは《愛する者よ、あなたの魂が恵まれているように、あなたがすべての面で恵まれ、健康であるようにと祈っています》とあることを私たちは知っています。

もちろん聖書は病気のいやしが中心メッセージではありません。神がイエス・キリストの十字架の贖いによって、私たち罪人に罪の赦しを与えることが中心メッセージです。しかし病気のいやしもまた無視することができないものがあります。なぜなら罪人である私たちがイエス・キリストによって救われる、罪赦されるということは、魂だけの問題ではないからです。私たちは身体を持つものとして、救いをいただくからです。身体ごと救われるといってもいいでしょう。もし魂だけが救われるというのでしたら、聖書が戦っているグノーシス主義と同じになってしまいます。それは身体は汚れたもので、魂を束縛している牢獄のようなものだと考えていました。しかし聖書は身体ということを大切にします。ですから聖書は《あなたがたは代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい》と語ります。

さてヤコブの手紙に戻りましょう。13節からは祈ることが勧められています。そして特に病気のいやしのために祈ることが勧められています。病気が苦しみであり、痛みであり、悩みであるゆえに、祈りが求められたのです。しかしここには病気のための祈りは、個人個人で祈ることではなくて、教会の祈りとして行うことが勧められていることに注目したいと思います。14節には《あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい》とあります。教会の長老、これは教会の役職にある者を指しています。今日でいえば教会の牧師のことになるでしょう。病気の時には、ひとりで苦しんでいるのではなくて、教会の長老を招いて祈ってもらいなさい。そのときには治療の効果があるとされていたオリーブ油を塗ってもらい、主に名によって祈りをささげてもらいなさいというのです。日本語にはうまく訳すことができませんが、原文では《祈ってもらいなさい》につながって「彼の上に」という言葉があります。この「彼の上に」というのは、手を置いてというようにも解釈できますから、病気の人にオリーブ油を塗って、手を置いて祈りをささげたということでしょう。とにかく病気のいやしの祈りは、教会の祈りであったということです。

教会の歴史を振り返るとき、教会の祈りの中に、病気のいやしのための祈りが重要な位置をしめていたことがわかります。例えば1500年代の宗教改革時代に記された教会規則には、病人の訪問についての項目があります。そこにはこう記されています。「多くの者は苦しい病気に罹っているときにも、神の言葉によって慰められることを怠っている。そこで誰でも牧師に知らされることもなく、3日以上床に伏し続けるようなことがあってはならない。親類、友人、看護人は病人が危篤状態になるまで待ってはならない。なぜならこういう場合には、慰めもほとんど役に立たないからだ」。つまりここに定められていることは、牧師が病気の人のところに訪問して、聖書を読んで祈りをささげることが教会の働きであるということです。病気のいやしの祈りは、教会の祈りだからです。

16節を見てください。《だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします》。ここには病気と罪が関連があるように記されていますが聖書はそのようには考えていないと思います。ヨハネ福音書9章の目の見えない人をいやされた場面で、イエス・キリストは罪が病気の原因であることを否定されました。ここで《罪を告白し合い》とあるのは、不摂生であったり、健康によくないとわかっていながらそれをしてしまうとかということだと思います。確かに自分の身体に悪いとわかっていることをして病気になるということは、悔い改めるべき罪の問題があるでしょう。そのようなことを行いながら、《互いのために祈りなさい》と勧められていることに注目したいのです。これは14節にあるような特別な役職の人が祈るというのではありません。教会のキリスト者が、お互いのためにそのいやしを求めて祈ることが勧められています。そしてそのような神の前にへりくだる者の祈りは、大きな力があって効果があるとされています。ここにはお互いの執り成しの祈りがあります。病気の人のために祈ることが勧められているのです。ここにも病気のいやしの祈りは、教会の祈りであることが教えられます。

こうして見てみますと、15節も教会の祈りであることがわかります。《信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます》。「信仰に基づく祈り」、それは個人的なものではありません。「わたしは神様が病気をいやしてくださると信じます」と祈ることが、「信仰に基づく祈り」ではありません。それは教会の祈りです。教会の長老が、牧師が病人を訪問して祈る教会の祈りです。教会のキリスト者が病気のいやしのためにお互いに祈りあい、執り成しの祈りとなる教会の祈りです。「信仰に基づく祈り」は教会の祈りです。それは「私たちの教会は、神様が病気をいやしてくださることを信じます」という信仰に基づく祈りです。

『神のいやしを信じる』。これが私たちの教会が強調してきた四重の福音の中の神癒の信仰です。いやしの信仰は、一人一人が信じるということも大事ではありますが、さらにそれ以上に教会全体で信じていくこと、そして教会全体でそのために祈っていくことが大事です。私たちの教会は、さらに「信仰に基づく祈り」をもって、いやしのために祈る教会でありたいと思います。 《信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます》。この「救い」や「起き上がる」は、未来を表していることから終末的な響きがあります。私たちの生涯は地上だけで終わるのではありません。永遠の命、復活の恵みがある。私たちはすでにイエス・キリストによる救いをいただいて、この永遠の命、復活の恵みに必ずあずかる約束をいただいています。それゆえに「信仰に基づく祈り」は決して無駄にはなりません。私たちキリスト者は、地上においていやえない病気であっても、永遠の命に、復活の恵みに生きるからです。

はじめに苦難にあったヨブのことをお話しました。ヨブは苦しみの中で、神に出会うという経験をしました。私たちは教会の祈りに励まされて、病気という苦難の中で、神に出会うという霊的な深みを経験します。神のいやしを信じる教会の祈りは、私たちを命の主である神の臨在の前に立たせます。

再臨・「主イエスは再び来られる」Ⅰテサロニケ4:13~18
(2002年6月30日深谷春男牧師説教より)

それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになりますⅠテサ4:17【再臨信仰について】 6月は「四重の福音」の強調月間で「新生」「聖化」「神癒」「再臨」の学びをした。今日はその最後となった。現代においては、特に聖書の語る終末信仰に霊の眼が開かれることは大切である。「クリスチャン生涯とは十字架の血潮であがなわれ、再臨の時に天にたずさえあげられるまでの地上生涯である」。その間に、聖化と神癒を入れる。キリストの再臨は聖書のメッセ-ジである。ルネ・パーシュの著した『再臨』 によると 聖書の中には再臨の記述が多いことがが記されている。同著によると旧約に1527節、新約 319節あるという。これはキリストの十字架に匹敵する量である。たしかに、そう言われてみれば、神の歴史支配の頂点である「主の日」のメッセ-ジは聖書のここかしこに記される。特にテサロニケ第一の手紙には各章がすべて再臨への待望でしめくくられている。内村鑑三が晩、再臨運動を起こして、当時の社会に大きなインパクトを与えたことは有名である。彼が再臨信仰に堅く立ったのは世界第一次大戦が勃発した1919年のことであった。聖書どおりの信仰がもっとも深く、もっとも強い。キリストの再臨は、代々の教会の信仰告白である。 また、キリストの再臨は代々の教会の重要な信仰告白であった。使徒信条のなかに「かしこより来たりて、生ける者と、死ねる者とを、さばき給わん」と告白されている。いつの時代でも、キリストの主権と、神の最終的な裁きの前に、すべての人は立たねばならない。例外なしに。これは教会の信仰である。特に、わたしたちの属するホ-リネスの群は、AB・シンプソン博士の提唱した四重の福音に立っている。聖書信仰を「新生・聖化・神癒・再臨」の四項目で要約した立場である。そのために、戦時中に東条内閣によって宗教弾圧を受け、多くの牧師が投獄され、獄死する者も出たのである。彼らは「天皇とキリストとどちらがえらいか?天皇には罪があるのか、キリストの再臨の時には天皇もキリストによって裁かれるのか?」等の質問を受け、不敬罪に問われた。【メッセージのポイント】1、 復活信仰に立とう!(過去の保証) イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。(14節) 再臨や終末の信仰の揺るがない土台は、主イエスの復活である。十字架と共に、この復活の信仰によってわれらは終末に対する信仰をもつ事が出来るのである。2、 裁きのラッパに耳をそばだてよう!(未来への期待) すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、(16節) 「過去の保証」とともにここには「未来への期待」がある。終わりのラッパの響きと共にキリストの再臨が起こり、「我らはまたたくまに一瞬にして変えられる」(Ⅰコリント15章)。終末の出来事が力強く、進展して行くさまが短い箇所であるが、印象深く描写される。3、 いつまでも主と共に歩め!(過去、現在、未来を通じて)それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。(17節) 再臨信仰の全体を通じてのイメージがここにある。「いつまでも主と共にいる」のであり、「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」(5:10)。主の臨在と共に歩むのである。【結論】キリストの再臨は、罪、死、人類歴史の最終結論である。聖書の語る終末メッセージに耳を傾けよう。過去のキリストの復活と、未来の裁きのラッパ、そしていつも変わらない主の臨在の中を歩もう。
ハレルヤ

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